【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】 第12回 江戸幕府を支えた女性たち<春日局・東福門院・桂昌院>
教科書などを読むと、男性の歴史人物を多く目にする印象がありますね。でも、世界・日本の長い歴史の中には、歴史をつくる活躍をした女性も数多くいるのです。
ここでは、多くの困難に立ち向かいながら、信念を貫き、功績を残した女性たちの姿を美しいイラストとともに紹介します。歴史をつくった女性たちのストーリーを入り口に、日本や世界の歴史を知る旅に出かけましょう。
1868年4 月11日は、江戸城無血開城の日といわれます。この日をもって江戸城を守る女性たちの住まいであった大奥の歴史も幕を閉じました。第12回は、江戸幕府を支えた女性たちを紹介します。
春日局(かすがのつぼね) (1579年~1643年/日本)
福(ふく)〈後の春日局※〉は武家の名門・斎藤利三(さいとうとしみつ)の娘として生まれました。姫として育てられますが、4歳の時、明智光秀(あけちみつひで)の重臣であった父が、本能寺の変で織田信長(おだのぶなが)を攻めるも、その後の戦いで敗れ、処刑されます。謀反人の子となった福は、親戚の間を転々として育ち、武家に嫁ぎますが、まもなく夫は主君を失い、浪人※となります。つつましく暮らす中、福は、幕府が、将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の息子・竹千代(たけちよ)の乳母(うば)を探していることを知り、応募。見事採用されました。
福は竹千代を我が子のように愛し、懸命に育てました。一説では、竹千代の母・江(ごう)は、病弱な竹千代より元気で明るい弟の国松(くにまつ)をかわいがっていました。そこで次期将軍に国松を推す声が高まると、福は江戸を抜け出し、駿府(すんぷ)〈静岡県〉で隠居していた徳川家康(いえやす)に「次の将軍には何とぞ竹千代ぎみを!」と直訴。これに心を動かされた家康は「次期将軍は兄の竹千代である!」と明言したといいます。竹千代は元服して家光と名乗り、20歳で第3代将軍となりました。福は家光が将軍になってからも仕え、江の死後は大奥も取り仕切り、幕府に貢献しました。晩年、病に倒れた福は薬を口にしませんでした。かつて家光が重い病気にかかったとき、家光の命が助かったら自分は一生薬をのまないと願をかけていたからでした。
※春日局…福が、御水尾(ごみずのお)天皇とその中宮・東福門院(とうふくもんいん。家光の妹)に謁見した際に官位と共に与えられた称号。
※浪人…主君に仕えていない武士。主君から与えられる給料(禄〈ろく〉)がないので、生活は苦しい。
東福門院(とうふくもんいん) (1607年~1678年/日本)
徳川和子(とくがわまさこ〈かずこ〉)は、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠と江の5女として生まれました。徳川家康は、当時不安定だった幕府と朝廷との関係を安定させるため、孫の和子を天皇に嫁がせたいと考えました。14歳で和子は後水尾(ごみずのお)天皇に嫁ぎます。豪華な花嫁道具を携えた和子の行列は、20日間かけて江戸から京都の二条城に到着しました。
武家を快く思っていない朝廷の人々の態度は、和子に対して冷ややかでした。夫の御水尾天皇は幕府に強い反感を持っていたものの、和子のことは大切にしました。やがて和子は女の子を出産。この子はわずか7歳で明正(めいしょう)天皇として即位します。女性の天皇が誕生したのは、奈良時代以来859年ぶりのこと。和子は天皇の母として東福門院という名を授けられました。
その後も和子は、ぶつかることが多かった幕府と朝廷の和平に力を尽くしました。明正天皇の2代後の後西(ごさい)天皇の即位を幕府が渋ったときは、幕府を説得して即位させたといいます。
桂昌院(けいしょういん) (1627年~1705年/日本)
町人の娘・お玉(たま)は実父の死後、母の再婚によって公家の家臣の養女になったのを皮切りに、その主筋の娘について江戸城大奥に上がました。そこで、第3代将軍・徳川家光の目に留まり、将軍の側室になりました。お玉のこのエピソードが「玉の輿(こし)」の由来であるという説もあります。
お玉は家光の四男・徳松(とくまつ)を出産し、溺愛します。自分が幼いころ満足に勉強できなかった経験から、徳松の教育には特に熱心でした。家光が亡くなると、お玉は尼となり、桂昌院と称しました。まもなく徳松も元服し、綱吉(つなよし)と名乗ります。
1680(延宝8)年、綱吉は第5代将軍となり、武力ではなく学問(儒学の中でも朱子学※)を重んじ、法令の整備などによって人々を治める文治政治を行いました。これは桂昌院の教育のたまものでした。のちに桂昌院は、綱吉の働きかけで、従一位という女性としての最高位を朝廷から授かります。
桂昌院は、その幸運な境遇への感謝の意味もこめ、寺院の建築や再興に貢献しました。また、生き物を大切にすれば早くあと継ぎができると信じ、あと継ぎがいなかった綱吉に「生類憐みの令」を出させました。これらは、幕府の財政難を招くとともに、人々の生活を混乱させましたが、桂昌院の信仰や親心の深さが表れていました。
結局、綱吉にはあと継ぎができず、兄の子を養子として次期将軍に定めました。これを見届け安心したのか、その翌年桂昌院は愛する息子のそばで78年の生涯を閉じました。
※朱子学…主従関係や親子の上下関係を大切にする学問。
【歴史解説】彼女たちが生きたのはどんな時代?
“鎖国の体制が固まる (1641年)”
江戸幕府は貿易を統制し、日本人の出入国を禁止する鎖国を行いました。鎖国下ではキリスト教を広めない中国とオランダだけが、長崎での貿易を許されました。なお、「鎖国」という言葉が使われるようになったのは、19世紀初めごろです。
“寛永(かんえい)のききんが発生 (1642年ごろ)”
異常気象や火山の噴火などが原因で作物が実らず、人々が飢えて苦しむ「ききん」が、江戸時代にはたびたび起きました。寛永のききん、享保(きょうほう)のききん、天保(てんぽう)のききんでは、特に多くの死者が出ました。
“生類憐みの令発布! (1685年)”
生類憐みの令は、第5代将軍・徳川綱吉が出した極端な動物愛護令で、1685年以降たびたび出されました。犬を殺傷したものは死罪など、その内容は大変厳しく、人々を苦しめました。綱吉が亡くなると、廃止されました。
出典
『歴史をつくった女性大事典<1>古代~近世の巻』
『歴史をつくった女性大事典<2>近代~現代の巻』
学研プラス(編)/監修:服藤早苗(埼玉学園大学教授)
各定価:3,520円(税込)