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コラム・マンガ

【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】  第1回 女流文学史上最大のライバル!?<清少納言・紫式部>

【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】  第1回 女流文学史上最大のライバル!?<清少納言・紫式部>

教科書などを読むと、男性の歴史人物を多く目にする印象がありますね。でも、世界・日本の長い歴史の中には、歴史をつくる活躍をした女性も数多くいるのです。
ここでは、多くの困難に立ち向かいながら、信念を貫き、功績を残した女性たちの姿を美しいイラストとともに紹介します。歴史をつくった女性たちのストーリーを入り口に、日本や世界の歴史を知る旅に出かけましょう。

11月1日は古典の日。第1回は、日本文学史で欠くことのできない優れた作品を執筆し、ライバル関係にもあったともいわれる二人の女性について紹介します。

清少納言(せいしょうなごん) (966年?~1028年?/日本)

雪の降った日、「香炉峰(こうろほう)の雪はどんな様子かしら?」と皇后の定子(ていし)がたずねました。中国の詩の一節「遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、香炉峰の雪は簾(すだれ)をかかげてみる」を踏まえた定子のしゃれた問いかけでした。すると、女房の一人がさっと立って御簾(みす)を巻き上げました。この女房こそ、才気ある女性と評判の清少納言でした。
香炉峰…中国にある山/女房…宮中に仕える女性

和歌の名手の家庭に育った清少納言は、和歌や漢文を学び、教養を高めました。性格は明るく勝ち気。「宮仕えをして見聞を広めたい」と考えていた清少納言は、最初の夫と疎遠になった後、関白・藤原道隆の娘、一条天皇の皇后・定子に仕えます。一条天皇も定子も文学を好んだ仲むつまじい夫婦で、清少納言は幸せな日々を過ごしました。ところが、道隆が世を去ると、定子も25歳の若さで亡くなり、清少納言は失意のうちに宮廷を去りました

ある時、清少納言が定子に仕えていたころから書き出していた、宮廷の様子を生き生きと書いた文章が、宮中で大評判となりました。そこには、「春は何と言っても明け方が最高!」「憎たらしいもの。用事があるときを見計らうようにやってきて長話する客!」など、新鮮な感覚で宮廷生活のことや思いが書きつづられてました。こうして、日本文学史上最初の本格的な随筆集である『枕草子』が出来上がったのです。

紫式部(むらさきしきぶ) (978年?~1014年?/日本)

紫式部は、裕福とはいえない中流貴族の家庭で育ちましたが、学者でもあった父の藤原為時も驚くほど幼いころから賢い娘でした。当時、女性は学問をしないことが普通でしたが、紫式部は漢文の書物や仏教の経典、『日本書紀』など数々の書物を読破しました。また、和歌や琴にも優れた才能を発揮しました。

紫式部は、21歳のころ、20歳以上も年上の男性と結婚し一女をもうけましたが、2年ほどで夫に先立たれます。寂しい境遇の中で、紫式部は当時の貴族社会を舞台にした、貴公子・光源氏と女性たちの物語を書き始めます。恋愛を通して、世のはかなさに対する“あはれ(あわれ)”がしみじみと描かれている、この『源氏物語』は宮廷で大評判になりました。時の権力者・藤原道長は、紫式部の才能を見込んで、一条天皇のきさきであった、娘の彰子(しょうし)の女房に取り立てました。

宮仕えの間も『源氏物語』は書き続けられ、全54巻、登場人物500人以上という長編小説になりました。平安時代は、宮廷に仕える女性たちによる「女房文学」が盛んになりましたが、質、量ともに『源氏物語』を超える小説はありません。現代でもさまざまな国の言葉に翻訳され、世界中で読まれています

生没年や年齢については、いくつかの説があります。

【歴史解説】彼女たちが生きたのはどんな時代?

“かな文字が発達”
平安時代の貴族たちは、それまでに取り入れられた中国の文化をもとに、日本独自の文化(国風文化)を生み出していきました。かつて中国から入ってきた漢字をもとに、日本独自のかな文字(ひらがな・かたかな)が作られたのもこのころです。ひらがなは、主に女性が使いました

“藤原道長が摂政に!(1016年)”
藤原氏は娘を天皇のきさきにして、生まれた子を次の天皇につけて天皇の外戚(母方の親戚)となりました。そして、摂政や関白の職について政治の実権を握りました。これを摂関政治といいます。藤原道長が摂政についた1016年ごろから、摂関政治は全盛期を迎えました。


 

出典
『歴史をつくった女性大事典<1>古代~近世の巻』
『歴史をつくった女性大事典<2>近代~現代の巻』
学研プラス(編)/監修:服藤早苗(埼玉学園大学教授)
各定価:3,520円(税込)

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