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【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】第6回 源頼朝と源義経を支えた女性たち<北条政子・静御前>

【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】第6回 源頼朝と源義経を支えた女性たち<北条政子・静御前>

教科書などを読むと、男性の歴史人物を多く目にする印象がありますね。でも、世界・日本の長い歴史の中には、歴史をつくる活躍をした女性も数多くいるのです。
ここでは、多くの困難に立ち向かいながら、信念を貫き、功績を残した女性たちの姿を美しいイラストとともに紹介します。歴史をつくった女性たちのストーリーを入り口に、日本や世界の歴史を知る旅に出かけましょう。

今年の大河ドラマは、鎌倉幕府成立のころを描いた作品ですね。第6回は、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)と、その弟である義経(よしつね)を支えた女性たちを紹介します。

北条政子(ほうじょうまさこ) (1157年~1255年/日本)

北条政子は伊豆国(いずのくに)〈現在の静岡県〉の豪族・北条時政(ほうじょうときまさ)の長女として生まれました。時政は、平氏(へいし)に敗れて伊豆国に流された源頼朝の監視役でしたが、娘の政子は頼朝とひかれ合います。これを知った時政は、政子を平氏一門の役人に嫁がせようとします。しかし、政子は婚礼の夜、屋敷を抜け出して雨の中、山を一つ越え、頼朝の元へ走りました。まもなく父の時政も折れ、二人の結婚を認めました。

北条氏のバックアップを得た頼朝は、平氏打倒の兵を挙げます。政子は、戦いに出た頼朝の無事を、毎日泣きながら祈りました。そして、見事平氏を倒した頼朝は、鎌倉幕府を開き、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となります。ところが、4人の子に恵まれ安泰かと思った矢先、頼朝が急死します。落馬がきっかけとも言われています。このとき自らも死のうと考えた政子でしたが、子どもを思って踏みとどまりました。

頼朝の死後、長男の頼家(よりいえ)が将軍となりますが暗殺され、次に将軍となった次男の実朝(さねとも)も暗殺されてしまいます。こうして源氏の将軍が途絶えると、京都の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、鎌倉幕府をたおすための挙兵を呼びかけ、承久(じょうきゅう)の乱を起こしました。動揺する武士たちに対し、政子は「お前たちは亡き頼朝様のご恩を忘れたのか。上皇側につくのであればまずこの政子に矢を射よ。それから屋敷に火を放て!」と訴えます。武士たちの心は一つにまとまり、上皇の軍を破りました。
この勝利によって幕府の支配力はいっそう強まり、北条氏が幕府を動かしていくようになりました。(執権政治)その後も政子は幕府に助言を与えるなど、影響力を持ち続け、「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ばれました。
執権政治…北条氏が代々執権という地位につき、鎌倉幕府の実権を握って行った政治。

静御前(しずかごぜん) (1165年?~没年不詳/日本)

名高い白拍子(しらびょうし)であった磯禅師(いそのぜんじ)の娘として生まれた静御前は、母ゆずりの優れた踊りの才能の持ち主でした。
静御前は、平氏との戦いで一番の武功を立てた源義経と出会い、恋人になります。平氏を滅ぼした後、義経は兄の頼朝と不仲になり、戦うことになってしまいました。しかし、義経に味方する者は少なく、静御前と数人の家来を連れた義経は、京都を離れ、奈良の吉野(よしの)に逃げ込みました。死ぬまで離れたくないと訴えた静御前でしたが、足手まといになることをおそれて、ここで義経と別れます。山中をさまよっていた静御前は頼朝方に捕まり、鎌倉へと送られてしまいました。
白拍子…この時代の歌舞の一種。またそれを演ずる芸人。

頼朝は、白拍子の静御前に、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で舞うことを命じました。静御前は、「昔を今に戻す方法があったなら…」「吉野で別れたあの人が恋しい…」という思いを歌いながら舞い、観客を感動させました。一方、頼朝は反逆者を慕うとは何事かと怒りました。この時、妻の北条政子が、「私が静御前だったならば、同じように歌い舞うでしょう」と、かつて自分が親の意向に逆らって、雨の中、頼朝の元に走ったことを語りました。それを聞いた頼朝は、静御前を許しました。
しかし、その後、静御前が義経の子を産むと、その子が男の子だったことから、頼朝は後々の復讐を防ぐために部下に命じてその子を殺させました

【歴史解説】彼女たちが生きたのはどんな時代?

“源義経が自害! (1189年)”
平氏を滅ぼした後、源義経は兄の源頼朝との仲が悪化し、藤原秀衡(ふじわらひでひら)を頼って平泉(ひらいずみ)〈岩手県〉に逃れました。しかし、秀衡の死後、頼朝の要求に屈服した秀衡の子の泰衡(やすひら)に攻められて自害しました

“源頼朝が征夷大将軍になる! (1192年)”
弟の義経などに命じて平氏を攻めさせて滅ぼした源頼朝は、鎌倉に本格的な武家政権である鎌倉幕府を開きました。1192年には朝廷から、武家政権の総大将である征夷大将軍に任ぜられました。

“承久の乱が起こる! (1221年)”
1221年、後鳥羽上皇は朝廷の勢力を回復しようと、北条氏に不満を持つ武士などを集めて幕府をたおすための兵を挙げました。しかし、北条政子の演説で団結した幕府軍に敗れ、上皇は隠岐(おき)〈島根県〉に流されました。これを承久の乱といいます。

“元軍が日本に攻めてくる! (1274年と1281年)”
1274年、日本を従えようとする元(げん)の大軍が九州北部に攻めてきました。幕府軍は苦戦しますが、元軍は引き揚げました。元軍は、1281年に再び攻めてきましたが、武士たちの活躍で上陸できず、暴風雨もあって再び引き揚げました。この2度にわたる元軍の襲来を元寇(げんこう)〈蒙古襲来(もうこしゅうらい)と言います。

 


 

出典
『歴史をつくった女性大事典<1>古代~近世の巻』
『歴史をつくった女性大事典<2>近代~現代の巻』
学研プラス(編)/監修:服藤早苗(埼玉学園大学教授)
各定価:3,520円(税込)

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