【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】 第9回 「歌舞伎の元祖」とされる女性<出雲の阿国>
教科書などを読むと、男性の歴史人物を多く目にする印象がありますね。でも、世界・日本の長い歴史の中には、歴史をつくる活躍をした女性も数多くいるのです。
ここでは、多くの困難に立ち向かいながら、信念を貫き、功績を残した女性たちの姿を美しいイラストとともに紹介します。歴史をつくった女性たちのストーリーを入り口に、日本や世界の歴史を知る旅に出かけましょう。
2月20日は歌舞伎の日。1607年のこの日、出雲の阿国が、江戸城で徳川家康らの前で初めて「かぶき踊り」を披露したことから記念日となりました。
第9回は、「歌舞伎の元祖」とされる、謎に包まれた天才舞踊家・出雲の阿国を紹介します。
出雲の阿国(いずものおくに) (1572年?~没年不詳/日本)
派手で人目を引いたかぶき踊り!
「さすがは阿国、何とも見事!」
人々が息をのんで舞台を見つめています。視線の先には、流行の鮮やかな着物に細身の刀と扇を持ち、笛や太鼓に合わせ、歌い踊る若者がいました。後に「かぶき踊り」と呼ばれるこの舞台を演じていたのは、実は男装の美しい女性でした。
時は1603(慶長8)年、場所は京都の北野天満宮の境内。あやしい魅力をたたえたその女性は阿国と呼ばれ、現在の島根県にある出雲大社の巫女と称していました。
阿国は出雲大社の修理の費用を集めるために芸能団を組織して諸国をめぐって踊っていたと伝わっています。やがて京都に出ますが、多くの芸能者が集まり芸を競っていた京都では、平凡な芸はすぐに飽きられてしまいます。
「みんなをあっと驚かせる、新しいことをしなくては」。そう考えてひらめいたのが、かぶき踊りでした。それまでにない斬新な動きで、流行の茶屋遊びなどの様子を踊る阿国の姿は人々に受け、大評判になりました。
徳川家康(とくがわいえやす)の前でかぶき踊りを披露!
豪華絢爛な桃山文化※を体一つで表現する阿国の評判は、幕府が開かれて間もない江戸にも伝わりました。そして1607年(慶長12)年、阿国は江戸城に招かれ、徳川家康の前でかぶき踊りを演じます。芸能者にとってこの上ない名誉でした。
※桃山文化…16世紀後半から17世紀初めにかけての安土桃山時代を中心に栄えた文化。権力や富を誇った大名や大商人の気風を背景に発達した、豪華で雄大な文化。
ところが名声の頂点を極めた阿国は、その後、歴史から姿を消してしまいます。若くして亡くなったとか、故郷の出雲に戻って尼になったとか。阿国のその後については謎に包まれたままなのです。
豆知識 ~かぶき踊りから歌舞伎へ~
現在の歌舞伎は男性だけで演じますが、始まりは阿国のかぶき踊りから発展した、女性だけで踊る女歌舞伎でした。しかし、女歌舞伎は風紀を乱すとして幕府によって禁止され、その後、成人男性による野郎(やろう)歌舞伎が始まります。男性が女性を演じる女方(女形、おんながた)が登場し、現在の演劇を中心とする歌舞伎の基礎となりました。
【歴史解説】彼女が生きたのはどんな時代?
“江戸幕府が成立! (1603年)”
関ヶ原の戦いに勝利した家康は、1603年に征夷大将軍に任じられて、江戸幕府を開きました。このときはまだ、大阪城に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子の秀頼(ひでより)がいて、家康に従っていませんでした。そのため、幕府を開いてわずか2年後、家康は子の秀忠(ひでただ)に将軍職をゆずり、徳川氏が代々将軍になることを諸大名に示したのです。
“大阪の陣(おおさかのじん)で豊臣氏が滅亡! (1615年)”
徳川家康は、1614年と1615年の二度にわたる大阪の陣で、豊臣秀吉の子らがいる大阪城を攻め、豊臣氏を滅ぼしました。こうして家康は、徳川氏の政権である江戸幕府による全国支配を確立しました。
出典
『歴史をつくった女性大事典<1>古代~近世の巻』
『歴史をつくった女性大事典<2>近代~現代の巻』
学研プラス(編)/監修:服藤早苗(埼玉学園大学教授)
各定価:3,520円(税込)