【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】 第10回 女性の地位確立に貢献した女性たち<津田梅子・平塚らいてう・市川房枝>
教科書などを読むと、男性の歴史人物を多く目にする印象がありますね。でも、世界・日本の長い歴史の中には、歴史をつくる活躍をした女性も数多くいるのです。
ここでは、多くの困難に立ち向かいながら、信念を貫き、功績を残した女性たちの姿を美しいイラストとともに紹介します。歴史をつくった女性たちのストーリーを入り口に、日本や世界の歴史を知る旅に出かけましょう。
3月8日は、国際女性デー。日本は、近代(明治時代)になっても参政権がないなど、欧米諸国に比べて女性の地位が低いままでした。第10回は、明治から大正にかけて、女性の地位の確立に貢献した女性たちを紹介します。
津田梅子(つだうめこ) (1864年~1929年/日本)
1871(明治4)年、明治政府は欧米に総勢107名の岩倉使節団を派遣しました。その時、津田梅子はわずか6歳。使節団に同行した日本初の女子留学生のひとりとして、最年少でアメリカに留学しました。11年後、17歳で日本に帰国。梅子の胸には「日本の女性教育のために力を尽くしたい!」という強い決意がありました。
11年ぶりの日本で、梅子は欧米諸国に比べ女性の地位が低いことにショックを受けます。当時、女性は結婚して家庭に入ることが当たり前でした。華族女学校の英語教師になりますが、生徒たちは教育を「花嫁修業」ととらえています。「日本の女性を教育で変えたい!」と梅子は24歳の時、再びアメリカへ留学します。
3年後に帰国し、1900(明治33)年、ついに「女子英学塾(現津田塾大学)」を開校しました。梅子の情熱が、日本の女性たちの未来を切り開いたのです。たった10人の生徒で始まった梅子の学校は、やがて多くの卒業生を、教師や通訳、翻訳家などとして日本各地に送り出しました。
平塚らいてう(ひらつからいちょう) (1886年~1971年/日本)
1911(明治44)年、25歳だった平塚らいてうは、日本で初めての女性のための文芸雑誌『青鞜(せいとう)』を発行しました。
当時、女性は結婚して子どもを産んで育て、家を守ることが当然とされ、日本の女子教育は良妻賢母を目指すものでした。女は女らしくという考えに反感を持っていたらいてうは、それまでの思いをこめて創刊の辞を書き上げました。創刊の辞は、「原始、女性は実に太陽であった」で始まり、「今、女性は月である」と続けられました。女性たちに「これからは自ら光り輝く太陽のような存在となり、自立して生きよう!」と力強く呼びかけたのです。
当時の道徳観や価値観を打ち破って女性の地位向上と解放を訴えた『青鞜』は、女性たちに大きな影響を与えました。しかし、『青鞜』を快く思わない人も多く、そこに集う女性たちをマスコミは、「新しい女」と揶揄(やゆ)しました。それでも、らいてうは「わたしは真に新しい女でありたい」と新しい女の生き方を実践していきました。大正時代には、市川房江(いちかわふさえ)らと、女性参政権の獲得の活動に取り組みます。
市川房枝(いちかわふさえ) (1893年~1981年/日本)
市川房枝は、1893(明治26)年愛知県に生まれました。父は気が短く、よく母に暴力をふるいましたが、母は耐えるだけ。当時の女性は父親や夫に絶対に従うのが普通でした。このような環境で育った房枝は「男女は平等でなければ!」と考えるようになり、卒業後、教師や新聞記者の仕事につき、女性一人でも生きていけるように自活の道を求めました。
その後、房枝は、民主的な社会を目指そうと唱える「大正デモクラシー」という思想や運動が盛んになっていた東京へと向かいました。そこで出会った平塚らいてうに誘われ、1920(大正9)年、26歳のときに、新婦人協会を設立。女性の政治活動の自由を禁止する法律の撤廃を求める活動を始めました。
1925(大正14)年、普通選挙法が成立しますが、女性に参政権は与えられませんでした。房枝は、女性の参政権獲得を目指す運動の先頭に立ちます。第二次大戦後の1945(昭和20)年、ついに女性の参政権が実現。日本の法律は大きく変わり、男女平等も唱えられるようになりました。房枝は1953年に参議院議員となり、議員としての立場からも女性の地位向上に力を尽くしました。
【歴史解説】彼女たちが生きたのはどんな時代?
“岩倉使節団が派遣された! (1871年)”
明治政府は、幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約の改正交渉をするため、岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団を欧米に派遣しました。改正交渉には失敗しますが、欧米で学んだ政治・産業・文化は、日本の近代化に大いに役立ちました。
“大正デモクラシーが起こる (1912年)”
大正時代、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義を求める動きが高まります。この運動を支えたのが、政治学者の吉野作造が説いた「民本主義」です。民本主義とは、天皇主権の憲法の下で、普通選挙による国民の政治参加を主張した理論です。
“普通選挙法が成立! (1925年)”
1925年、普通選挙法が成立し、満25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられました。同じ年、その直前には共産主義を取り締まるための治安維持法が制定されました。
出典
『歴史をつくった女性大事典<1>古代~近世の巻』
『歴史をつくった女性大事典<2>近代~現代の巻』
学研プラス(編)/監修:服藤早苗(埼玉学園大学教授)
各定価:3,520円(税込)