【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】 第13回 天皇とともに歩んだ女性たち<昭憲皇太后・香淳皇后>
教科書などを読むと、男性の歴史人物を多く目にする印象がありますね。でも、世界・日本の長い歴史の中には、歴史をつくる活躍をした女性も数多くいるのです。
ここでは、多くの困難に立ち向かいながら、信念を貫き、功績を残した女性たちの姿を美しいイラストとともに紹介します。歴史をつくった女性たちのストーリーを入り口に、日本や世界の歴史を知る旅に出かけましょう。
4月29日は、昭和の日です。もともとこの日は昭和天皇の誕生日の祝日でした。第13回は、天皇とともに歩んだ女性たちを紹介します。
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう) (1850年~1914年/日本)
昭憲皇太后※が明治天皇の皇后になったのは、1868年(明治元)年のことでした。近代日本のスタートとともに始まった皇后としての生活。都は京都から東京に移り、欧米の文化がさかんに取り入れられる中、宮中の改革も進みました。千年以上続いていた眉そり※とお歯黒(はぐろ)※が禁止され、食事や服装などさまざまなものが欧米風に変化していきます。
皇后も、着物は女性の行動を制限して不自由にさせると考え、1886(明治19)年から、衣服全般を洋服に切り替え、見事に着こなします。新しい時代を生きる皇后の姿は、そのまま近代女性の象徴ともいえました。
皇后は、博愛社(現日本赤十字社)の設立・維持を助けるなど、社会事業の発展に努めました。また、女子教育にも深く関心を持ちました。津田梅子ら日本初の女子留学生が渡米する際には皇居に招き、激励しました。東京の女子師範学校(現お茶の水女子大学)の設立も大変喜び、資金を出し、開校式にも出席して、「みがかずば 玉もかがみも なにかせん 学びの道も かくこそありけれ(玉も鏡も磨かなければ何にもなりません。学ぶということもそういうものです)」という歌を贈りました。以後、皇后は、同校やその後に設立された華族女学校(現学習院女子大学)などをたびたび訪れ、女子教育の発展に努めました。
※皇太后…前の天皇の皇后。昭憲皇太后は、明治天皇の死後に皇太后となった。
※眉そり…奈良時代ごろから続いていた眉の化粧法で、眉をすべてそり落とし、または抜いて、額の上部に別の眉を描いた。
※お歯黒…歯を黒く染める風習。始まりは弥生時代とも言われ、平安時代になると皇族や貴族に定着。江戸時代には庶民にも広まった。
香淳皇后(こうじゅんこうごう) (1903年~2000年/日本)
1926年(大正15)年、昭和天皇と香淳皇后は若くして天皇・皇后に即位しました。このとき昭和天皇は25歳、香淳皇后は23歳。二人は2年前に結婚したばかりでした。香淳皇后は、若くして重い立場に立つことになった昭和天皇の心中を察し、「陛下をお支えせねば!」と思ったことでしょう。そして、激動の時代を昭和天皇とともに歩むことになります。
太平洋戦争での敗戦は、日本の社会に大きな変化をもたらしました。天皇は「人間宣言」※をして、国民と積極的に親しもうと奮闘しました。香淳皇后は、天皇の思いをしっかりと受け止め、「陛下とともにあるように」と、さまざまな活動を活発に行いました。日本赤十字社の名誉総裁にも就任し、活動を支援しました。
また、子育ての全てを乳母(うば)に任せず、できるだけ自らの手元で子どもを育てました。これは当時の皇室としては大変画期的なことでした。こうして、香淳皇后は新しい皇室の一員として、天皇とともに戦後の昭和を歩んだのです。
※人間宣言…1946年1月に昭和天皇が発した詔書(しょうしょ=天皇が発する公文書)である「新日本建設に関する詔書」で、昭和天皇はそれまで信じられていた天皇が神であるという考え方を自ら否定した。
【歴史解説】彼女たちが生きたのはどんな時代?
昭憲皇太后が生きた時代 “明治維新! (1868年~)”
江戸幕府をたおし、近代国家の成立を目指して進められた政治・経済・社会の変革を明治維新といいます。経済を発展させ、国力をつけて強い軍隊をもつことに力を入れ、政府の収入を安定させるための地租改正などさまざまな改革が行われました。
香淳皇后が生きた時代 “ポツダム宣言の受諾! (1945年)”
戦争が続いていた1945年7月、アメリカ、イギリスなどが日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言を発表します。当初、日本政府はこれを無視。その後、原子爆弾が投下され、ソ連は日本に宣戦します。ようやく日本は宣言を受け入れて降伏することを決め、8月15日に昭和天皇がラジオ放送で国民に日本の降伏を知らせました。
出典
『歴史をつくった女性大事典<1>古代~近世の巻』
『歴史をつくった女性大事典<2>近代~現代の巻』
学研プラス(編)/監修:服藤早苗(埼玉学園大学教授)
各定価:3,520円(税込)