【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】 第14回 権力争いに翻弄された浅井三姉妹<淀殿・初・江>
教科書などを読むと、男性の歴史人物を多く目にする印象がありますね。でも、世界・日本の長い歴史の中には、歴史をつくる活躍をした女性も数多くいるのです。
ここでは、多くの困難に立ち向かいながら、信念を貫き、功績を残した女性たちの姿を美しいイラストとともに紹介します。歴史をつくった女性たちのストーリーを入り口に、日本や世界の歴史を知る旅に出かけましょう。
慶長20年5月8日に、大阪城(大阪府)が陥落しました。この日、浅井(あざい)三姉妹※の長女・淀殿(よどどの)は、息子の豊臣秀頼(とよとみひでより)とともに自害しました。第14回は、権力争いに翻弄(ほんろう)された浅井三姉妹を紹介します。
※浅井三姉妹…織田信長(おだのぶなが)の妹のお市の方(おいちのかた)と浅井長政(ながまさ)の3人の娘。
淀殿(よどどの) (1567年?~1615年/日本)
浅井三姉妹の長女・茶々(ちゃちゃ・のちの淀殿)は戦で両親を失い、17歳のころから妹の初(はつ)、江(ごう)とともに、豊臣秀吉(ひでよし)の保護を受けます。数年後、秀吉は美しい茶々を側室に望むようになります。秀吉は父のかたきでしたが、茶々は「天下人・秀吉の世継ぎを産んで、浅井家の血筋を残そう」と考えました。淀殿という呼び名は、こののち秀吉から与えられた城(淀城)に由来します。やがて淀殿は秀頼を産みますが、秀頼が6歳のとき秀吉は亡くなりました。
淀殿は秀頼を次の天下人にと望みますが、秀頼はまだ幼く、秀吉の家臣だった徳川家康(とくがわいえやす)が勢力を強めていきました。やがて家康は武家政権である江戸幕府を開き、秀頼に対して自分の家臣になるよう要求しますが、淀殿は拒否します。
その後、家康は豊臣家を滅ぼすために攻撃をしかけ、ついに1615(慶長20)年、淀殿と秀頼が暮らす大阪城は陥落し、淀殿は秀頼とともに自害しました。
初(はつ) (1570年?~1633年/日本)
初は、姉の茶々(淀殿)、妹の江とともに、豊臣秀吉の元で過ごしていたとき、秀吉のすすめで大名・京極高次(きょうごくたかつぐ)と結婚し、幸せに暮らします。江戸幕府が開かれて数年後、初が40歳のころに夫が亡くなり、出家して尼になりました。
そのころ姉の淀殿がいる豊臣家と、妹の江が嫁いだ徳川家が対立を深めていき、初は心を痛めます。まもなく大坂冬の陣が起こり、淀殿のいる大阪城が徳川軍に取り囲まれたことを知ると、初は危険を冒して大阪城に乗り込み、淀殿に「何とぞ家康殿と和議を」と訴えました。淀殿はこの必死の説得を聞き入れ、落城の危機は回避されました。
ところが翌年、夏の陣が起こり、またも大阪城は危機に直面。初は再び講和を試み、大阪城に入ります。しかし、覚悟を決めていた淀殿は初を城から脱出させると、息子とともに自害しました。その後初は、夫や両親ら、亡き家族を弔いながら静かに暮らしました。
江(ごう) (1573年~1626年/日本)
浅井三姉妹の末っ子の江は、小柄で華奢な美人だったといわれています。二人の姉とともに豊臣秀吉の保護を受け、12歳のとき秀吉の命令で最初の結婚。しかし、すぐに秀吉によって離縁させられます。次に秀吉の甥の羽柴秀勝(はしばひでかつ)に嫁ぎますが、秀勝は朝鮮へ出兵中に病死します。
三度目に秀吉が選んだ相手は、徳川家康の息子の秀忠(ひでただ)。豊臣家と力のある徳川家との結び付きを強めるためでした。その後、家康は将軍となって江戸幕府を開き、わずか2年後に秀忠に将軍の座を譲ります。江は将軍の正室になりました。
江と秀忠には5人の娘のほか二人の息子がいました。江は、長男の竹千代(たけちよ・のちの3代将軍家光〈いえみつ〉)より次男の国松(くにまつ)をかわいがっていたともいわれています。一説によると、兄よりも利発で体の丈夫な国松を跡継ぎにという動きが起こりますが、家康の鶴の一声で、長男の竹千代が次期将軍と決まったといいます。
江の末娘の和子(かずこ)〈後の東福門院(とうふくもんいん)〉は、後水尾(ごみずのお)天皇に嫁いで皇后となり、後に明正(めいしょう)天皇となる子を産みます。つまり、将軍の母である江は、天皇の祖母にもなりました。
こうして、幕府と朝廷の二つの最高権力の座に、江の子と孫がついたのです。
【歴史解説】彼女たちが生きたのはどんな時代?
“豊臣秀吉が全国統一! (1590年)”
織田信長に仕えた秀吉は、本能寺の変で織田信長を自害させた明智光秀を倒し、信長の後継者となりました。大阪城を築城して拠点とし、太閤検地(土地の測量)などの政策を進め、刀狩(農民から武器を没収)を行い、1590年に全国統一を成し遂げました。
“江戸幕府の成立! (1603年)”
1603(慶長8)年、徳川家康が朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸(東京都)に幕府を開きました。江戸幕府は、第3代将軍の家光のころまでに支配体制がほぼ整えられ、第15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)まで、265年間続きました。
“参勤交代を定める! (1635年)”
参勤交代は、大名が一年おきに、江戸と領地を往復する制度で、1635年に3代将軍徳川家光が定めました。江戸での生活や往復(大名行列)の費用は、大名にとって重い負担でした。いっぽう、参勤交代によって街道や宿場町が整備され、全国各地の交流が盛んになりました。
出典
『歴史をつくった女性大事典<1>古代~近世の巻』
『歴史をつくった女性大事典<2>近代~現代の巻』
学研プラス(編)/監修:服藤早苗(埼玉学園大学教授)
各定価:3,520円(税込)