子どもの「表現」のちからを信じて 後編
あかはなそえじ先生の院内学級の教師として学んだこと「第65回」
院内学級の教師として、赤鼻のピエロとしてかかわるなかで、笑顔を取り戻し、治療に向かう意欲を高めていく子どもたち。その経験をもとに、子どもとの接し方や保護者・家族とのかかわり方、院内学級の必要性、教育の重要性などについて語ってくれます。
医学的にあり得ない? 子どものちから
前編からの続きです(ご覧になってない方はこちら)。
病院に学校の先生が来られなかったので、私が行って本を読んだり、歌をうたったりしていました。子どもたちの中でも、目も見えない、耳も聞こえない、反応がないといわれている小学校高学年の女の子のところに、絵本を読みに行ったときのことです。
その絵本の中に、大きなオオカミがほえている絵があったので、その絵を見せながら、私が「ガオ~ッ!」と大声を出したとき、女の子の顔が真っ赤に染まったのです。
私はあわてて「うわー、ビックリしたね! ごめんね」とあやまりました。
医学的にはあり得ない? まさに「ぐうぜんだ」と言われるかもしれませんが、でも、女の子の顔はたしかに赤くなったのです。
「バイタルサイン」とは人間が生きていることを示す指標のことです。病院関係者はみゃくはく、呼吸、体温、血圧を見ています。話す、聞く、動くなどの表現がない場合は、私もそのバイタルサインを見ながら、子どもたちとかかわっています。
そう考えると、どのような状態にある子どもたちも、なんらかの合図を私たちに伝えてくれているのではないかと考えます。子どもたちの表現を受け取る、こちら側の力量が問われているのはないかと思うのです。
「ないはずのもが、あるとき」と「あるはずのもが、ないとき」
院内学級の教室に子どもたちが来てくれます。初めて来てくれた日は、まだまだエネルギーがない子どもたちもいます。
そんなときは、うすくてわかりやすい詩の本を何冊かとふせんをわたして「心に残った詩にふせんをはってください。すてきだなぁ、いいなぁと思った詩です。それ、わかるなぁという詩ね。えー、なんだかいやだなぁと思った詩にもはっていいですよ」とお願いします。
パラパラ本をめくりながら、ときどきペタッとふせんはってくれています。終わったという合図をもらったとき、もう少しエネルギーがあるなと思ったら、「では、今、ふせんをはった詩の中で、これがいちばん心に残ったと思う詩を選んで、清書してみましょうか」とお願いをして、書いてもらいます。
そこで選んでくれた詩から、子どもたちのいろいろな気持ちが伝わってきます。子どもたちはいろいろな表現を使って、心を伝えてくれます。表現してくれたことが、そのまま心のすべてではないにしろ、気持ちと表現が重なっていると理解しやすいと思います。
でも、時にはズラしたり、思ったこととはちがう表現をしたりする子もいます。表現をしないことで、「わかってくれよ」というメッセージを送ってくる子もいます。
私たちはつい、表現されたことだけから気持ちを受け取りがちです。でも、自分の経験をふり返ってみれば、決して自分の気持ちを全部を表現できないことはわかりますよね。
子どもたちが大きく、激しい表現をするなどの「ないはずのもが、あるとき」はよくわかります。ただ、「いつもなら何か言うはず」「ふだんだったら喜ぶはず」「今日はいやがらないな」など「あるはずのものが、ないとき」があります。じつは、それも子どもたちの大きなメッセージなのです。
「ないはずのものが、あるとき」はもちろん、「あるはずのもが、ないとき」に出す子どもの「表現」やサインがあるのです。子どもたちとのかかわりを通してささいな「表現」もしっかりと受け止められる教師、親、保護者でありたいといつも考えます。
Information
「あかはなそえじ先生のひとりじゃないよ」
四六判・全248ページ
1400円+税
学研教育みらい刊