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【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】 第23回 古代日本の女王たち<卑弥呼・推古天皇・持統天皇>

【美しいイラストで知る 歴史をつくった女性人物ストーリー】 第23回 古代日本の女王たち<卑弥呼・推古天皇・持統天皇>

教科書などを読むと、男性の歴史人物を多く目にする印象がありますね。でも、世界・日本の長い歴史の中には、歴史をつくる活躍をした女性も数多くいるのです。
ここでは、多くの困難に立ち向かいながら、信念を貫き、功績を残した女性たちの姿を美しいイラストとともに紹介します。歴史をつくった女性たちのストーリーを入り口に、日本や世界の歴史を知る旅に出かけましょう。

今年10年ぶりに、古代日本の邪馬台国(やまたいこく)と関係があるのではないかといわれる吉野ケ里(よしのがり)遺跡の発掘調査が再開され、話題となっています。第23回は、古代日本を治めた女王たちを紹介します。

卑弥呼(ひみこ) (2世紀後期~3世紀前期/日本)

2~3世紀の日本は倭(わ)と呼ばれ、多くの小国に分かれており、争いが絶えませんでした。それまで男の王が支配していた邪馬台国は、卑弥呼を女王に据えると、争いが収まったといいます。卑弥呼は、30ほどの小国を治めていました。
卑弥呼には、不思議な力がありました。占いやまじないによって神のお告げを聞くことができたのです。米作りの時期や戦の方法などさまざまなことを占い、人々が卑弥呼の言う通りにすると、見事成功。卑弥呼は女王として絶大な力をもちました。

239年、卑弥呼は中国の魏(ぎ)の皇帝に使いを送り、皇帝から「親魏倭王(しんぎわおう)」と刻まれた金印などを授けられました。「親魏倭王」とは、魏と親しい倭の王という意味です。当時大きな力をもっていた魏から、倭の王と認めてもらうことに成功した卑弥呼は、まだ邪馬台国に従っていなかったほかの国にも、力の大きさを知らしめることができたのでした。
こうして平和な国をつくった卑弥呼ですが、いつ生まれていつ死んだのか、どこに住んでいたのかなど、くわしいことはあまりわかっていません。神話のベールに包まれた、古代日本の謎の女王なのです。

推古天皇(すいこてんのう) (554年~628年/日本)

額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、のちの推古天皇は、推古天皇は欽明(きんめい)天皇の娘として生まれました。奈良時代に完成した歴史書である『日本書紀』に「見目うるわしく、ふるまいが乱れなく整っていた」とあることから、美しく聡明な女性だったようです。18歳で結婚し,夫が即位して敏達(びだつ)天皇となり、皇女はまもなく皇后になりました。天皇との間に2人の男の子と5人の女の子が生まれますが、皇后が32歳のとき、敏達天皇が亡くなります。
当時、朝廷内では、有力な豪族であった物部(もののべ)氏と蘇我(そが)氏の争いがヒートアップ。とうとう蘇我氏が物部氏を滅ぼし、蘇我氏が後押ししていた皇子が崇峻(すしゅん)天皇となりました。しかし崇峻天皇が自分の思うようにならなかったため、蘇我馬子(うまこ)は天皇を暗殺してしまいます。
そんな乱れた朝廷の中で、次の天皇として馬子らが考えたのが皇女でした。敏達天皇の葬儀を取り仕切るなどの行動から、政治を行う能力が高いと認められたのです。こうして皇女は日本初の女性天皇として即位し、推古天皇となります。

そんな推古天皇を強くサポートしたのが、甥の聖徳太子(しょうとくたいし)〈厩戸皇子(うまやどのおうじ)〉です。
「皇子、私と共に新しい国を作りましょう」。593年、摂政(せっしょう)に任命された聖徳太子は、推古天皇のもとで馬子と協力して新しい政治を進めます。まず、家柄に関係なく、能力のある人を重要な役職に抜擢するために「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」を制定。また、天皇の命令には必ず従うこと、役人同士が争わないことなどを、「十七条(じゅうしちじょう)の憲法」に定めました。
聖徳太子を信頼し、政治をともに行った推古天皇。太子が目指した天皇を中心とする国づくりは、その後の天皇らに受け継がれていきました。

持統天皇(じとうてんのう) (645年~702年/日本)

第41代天皇である持統天皇の幼いころの名は、鵜野讃良(うののさらら)。彼女は13歳の時に、おじに当たる大海人(おおあまの)皇子と結婚しました。皇子が即位して天武(てんむ)天皇となると、讃良は皇后としてともに政治を行うなど、いつもそばで天皇を助けました。天武天皇もそんな皇后を大切に思い、皇后が病気になったときには、快復を願って薬師寺(やくしじ)の建立を決意したほどです。

即位して10年ほどたつと、天武天皇は病気がちになってしまいました。病に伏せる天皇の代わりに、皇后は子の草壁(くさかべの)皇子と協力し、政治を執り行います。天武天皇が亡ってまもなく、次の天皇に考えていた草壁皇子も病気で急死。愛する人を立て続けに失った皇后は深い悲しみに暮れます。皇子には息子がいましたが、天皇になるにはまだ幼すぎました。「私が自ら天皇になり、この国を支えていこう」と、皇后は即位して持統天皇となります。そして、天武天皇が進めていた藤原京(ふじわらきょう)の建設を引き継ぎ、694年、中国にならった日本初の本格的な都を誕生させました。
また、天武天皇が作成を命じていた、日本初の体系的な法典「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行律令国家の土台をつくったのです。その後、孫に天皇の位を譲ってからも、史上初の上皇として天皇の政治を支えました。

【歴史解説】彼女たちが生きたのはどんな時代?

卑弥呼が生きた時代“魏に使いを送る! (239年)”
卑弥呼は、魏の皇帝に奴隷や織物などの貢ぎ物を贈りました。皇帝はそのお返しとして、金印や銅鏡100枚を卑弥呼に授けたといわれています。倭の王であると認めてもらうことで、卑弥呼は自らの権威を高めようとしたのです。

推古天皇が生きた時代“遣隋使(けんずいし)を派遣する! (607年)””
聖徳太子は中国の隋(ずい)の進んだ制度や文化を学ぶため、小野妹子(おののいもこ)らを遣隋使として派遣しました。太子からの「日出づる処(ひいづるところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を読んだ隋の皇帝は激怒したといいます。

持統天皇が生きた時代“藤原京に遷都! (694年)”
藤原京は大和三山(やまとさんざん)に囲まれた場所に建設された、日本で最初の本格的な都です。694年から710年の平城(へいじょう・へいぜい)京への遷都まで日本の都でした。平城京や平安(へいあん)京を上回る規模の都だったと考えられています。

「美しいイラストで知る 歴史をつくった 女性人物ストーリー」は、今回で最終回となります。
ご愛読ありがとうございました。


出典
『歴史をつくった女性大事典<1>古代~近世の巻』
『歴史をつくった女性大事典<2>近代~現代の巻』
学研プラス(編)/監修:服藤早苗(埼玉学園大学教授)
各定価:3,520円(税込)

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