病気の子どもたちが失っていくもの
「あかはなそえじ先生の院内学級の教師として学んだこと」第3回
院内学級の教師として、赤鼻のピエロとして関わるなかで、笑顔を取り戻し、治療に向かう意欲を高めていく子どもたち。その経験をもとに、子どもとの接し方や保護者・家族との関わり方、院内学級の必要性、教育の重要性などについて語ってくれます。
院内学級や病とうでの子どもたちとの関わりの中で教わったことのひとつに「喪失(そうしつ)感」があります。
病気、けが、入院ということを通して、子どもたちはたくさんのものを失っていきます。
そのうちの大切なふたつは「感情」と「関係性」だと私は考えます。
~「だいじょうぶ」Aさんの場合~
I型糖尿病のAさんは当時、小学校3年生でした。
かれは自分の病気のために毎日、血糖値を計ります。
指先に針をさして血をとり、それを測定器に当てて数値を見るのです。
食事のたびに計らなければならないし、
起きたあと、ねる前と1日に5回も、6回も指先に針をささなければなりません。
数値がかんばしくないと、自分で注射を打って薬を体に入れなければならない。
多い日はなんども、針をさすことになるでしょうか。
どんな痛みがあるのか、ドクターにたのんで測定器を使わせてもらったことがあります。
針がささる瞬間(しゅんかん)はもちろん痛いのですが、自分で針をさすというのは
ふだんの注射とはまた異なる感覚がありました。
ある日、測定のために針をさす瞬間、かれが顔をしかめたため、
思わず「痛いよね」と言ってしまったのですが、
かれは「ううん、だいじょうぶ。痛くないよ」と私に伝えてくれました。
そうなのです。かれはこれからも毎日、この測定をしなければならない。退院してからも、です。
自分で測定し、注射を打てるようになることが退院のひとつの条件だから。
それなのにその都度、痛いと思っていたらやっていられませんよね。
体をかたくして顔をしかめているのに、頭では痛くないと考えなければならないのです。
かれらはよく「だいじょうぶです」と言います。
本当にだいじょうぶというよりは、おまじないの言葉のように使うことが多いように感じます。
そうやって、体が感じていることをおしこめ、感情を感じないようにしていくのです。
~「さびしいってわけじゃない」Bさんの場合~
男子中学生のBさんとナースセンターのかべに寄りかかって、
ふたりで話をしていたときのこと。
Bさんは小さい頃からなんども入退院をくり返していました。
ふだんから、かれは「お見まいになんか来なくていいよ」と言っていて、
お母さんにも「いそがしいんだから、早く帰っていいよ」と気をつかうお子さんです。
それでも、その日はなんとなくさびしさを感じていたのかもしれません。
小学校低学年の男の子が、お見まいに来てくれた担任の先生とお話している姿を、
ぼんやりながめていました。
私が「ちょっとさびしい?」ときくと、
「さびしいってわけじゃないけど。ぼくのことを本気で大切だと思うのなら、今、ぼくが
どんな状きょうにあるのか見に来いよ!」とさけんだのです。
学校の先生がお見まいに来てくれるのは、先生個人の裁量ですから、とても差があります。
学校にとって、医療施設は敷居(しきい)が高いのかもしれませんが、
「担任はいちども来てくれなかった」と言って、退院していく子どもも多いのです。
子どもたちにとって学校、学級は、友だちや先生という今まで自分が築き上げてきた、
大切な関係がある場所です。
入院によって、かれらは多くの失っていく感覚を持ちますが、
学校との関係性を失くすことは、子どもたちにとってはとてもつらいことだと感じます。
あかはなそえじ先生・副島賢和(そえじま まさかず)
昭和大学大学院保健医療学研究科准教授、昭和大学附属病院内学級担当
1966年、福岡県生まれ。東京都の公立小学校教諭を25年間務め、
1999年に都の派遣研修で東京学芸大学大学院にて心理学を学ぶ。
2006年より品川区立清水台小学校教諭・昭和大学病院内さいかち学級担任。2009年ドラマ『赤鼻のセンセイ』(日本テレビ)のモチーフとなる。2011年『プロフェッショナル 仕事の流儀「涙も笑いも、力になる」』(NHK総合)出演。2014年より現職。学校心理士スーパーバイザー。ホスピタルクラウンとしても活動中。
四六判・全248ページ
1400円+税
学研教育みらい刊