解説 お江戸の科学
江戸の時刻制度“不定時法”
江戸の時刻制度では、日の出と日没を基準とする不定時法が使われていた。日の出およそ30分前を明け六つ、日没およそ30分後を暮れ六つとし、その間を昼夜それぞれ六等分して一刻(いっとき)とした。
時刻の呼び方には、十二支と数が使われる。数は九つから四つまで下がるとまた九つに戻る。この数え方が「時そば」の落ちのミソ。与太郎はほんの少し早い時間に蕎麦を食ったため、九つと四つの違いで、四文も損をしたのだ。 時の数え方には、ほかに一刻を四等分する数え方もある。「草木も眠る丑三つ時(うしみつどき)」というのは、丑(うし)の刻(こく)の三番目の呼び方のこと。
常に日の出のおよそ30分前を明け六つ、日没のおよそ30分後を暮れ六つとしたこの不定時法では、一刻の長さが、昼と夜で、また季節によっても違ってくる。しかし、江戸の人々の生活にはそれで何の不便もなかった。人々はこうした時刻を、各地に設けられた時の鐘の音で知った。
江戸時代、時計を持っているのは大名や豪商などだけだった。時計を持っていない庶民は、日本橋石町(本石町)の時の鐘や、何ヵ所かの寺で鳴らす鐘の音で時刻を知った。時の鐘の音は、まず気づかせるための“捨て鐘”を3つ打つ。それから刻の数を最初長く、徐々に詰めて打ったので、途中から聞いた人も今何時かが解ったという。 数カ所の時の鐘は、上野寛永寺が初めに撞き、その音を聞いて、市ヶ谷、赤坂、芝の寺々が鳴らしていったといわれている。 上野の時の鐘と鐘楼→ 上野の時の鐘は、寛文6年(1666年)に鋳造され、徳川将軍家の菩提寺の寛永寺に置かれた。現在も同じ場所(現・上野公園内)にある時の鐘は、天明7年(1787年)に鋳直されたもの。今も鐘を守る人の手によって、朝夕の6時と、正午に撞かれ、上野の町に時を告げている。(取材協力=寛永寺)
当時、日時計も庶民が時を知る手段のひとつだった。写真は旅用に作られた携帯の和紙製日時計。紙を水平に保ち、その月の短冊を垂直に立て、太陽に向けてできた影の長さで、時刻を知った。(写真=セイコ時計資料館所蔵)