解説 お江戸の科学

江戸の三火消と消防技術

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江戸の町はとても火事が多く、数年に一度大火があった。燃えやすい木造家屋が連なる家々に一旦火がつくと、なかなか消火できない。現代のような科学的な消防技術がなかった江戸の消防は、火元より風下の家々を壊して延焼を防ぎ、火災の被害をくい止める、「破壊消防」が基本。江戸の消防組織は、江戸城と武家地の消防にあたる大名火消と定(じょう)火消、町人地区の消防にあたる町火消の三組織から成る。 大名火消 組織的な火消制度は、寛永6年(1629)火災緊急時に臨時に召集される大名の奉書火消が始まり。寛永20年(1643)には大名16家、4組から成る編成を整えて江戸の消防にあたった。

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定火消 しかし、明暦3年(1657)の大火の被害のすさまじさを教訓に、旗本4家を選抜、火消屋敷を与え、専門に江戸城の火災警戒にあたらせたのが定火消。宝永元年(1704)には10家から成る定火消が編成され、それぞれ駿河台、小川町、四谷門内、八代州河岸、御茶ノ水、半蔵門外、赤坂門外、飯田町、市谷左内坂、赤坂溜池の10個所を担当した。与力6騎、同心30人、臥煙100〜200人で構成された。

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臥煙(がえん)> 定火消の火消人足を臥煙といった。常に法被一枚とふんどしだけで、気が荒い。臥煙部屋と呼ばれる大部屋で起居、待機する。就寝時は、一本の長い丸太を枕に10〜15人程が並んで眠り、緊急時には寝ず番の一打で一斉に起きる。歌川(安藤)広重が描いた火事絵『江戸乃華』には、臥煙についての記述がある。要約すると、「極寒でも法被一枚だけ、全身に入れ墨をし、白足袋はだし…、法被の着こなし粋にして勢よく…、家柄ある子息も臥煙にあこがれて身を誤る者が少なくない…」とある。このお噺「火事息子」の若旦那も例外ではなかったようで、母親が、寒そうだから着物を与えたいと思ったのも当然の感情。 夜間、火災があると、頭の下の丸太を叩いて、臥煙たちを起こした。

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町火消 町人地区を火災から守る町火消は、享保3年(1718)に創設され、享保5年(1720)には、町奉行大岡忠相によっていろは47組(後に48組)と、本所深川16組が本格的に組織された。総勢およそ1万人で、係る費用は町の負担。命知らずで粋な火消は町民に大人気で、憧れる者が多かった。頭取(その下に小頭を置く組もある)、纏(まとい)持ち、梯子持ち・道具持ち、平人(鳶口)、土手人足(土木工事人足で、火事には出動しない)などの階級から成る。鳶などの町火消人足は、普段は建築現場で働いていたりするが、火急のときには即刻町内の自身番に集結して、頭取の指揮のもと現場へ向かう。

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■半鐘と火元までの距離 江戸の町には各所に火の見櫓があり、半鐘が設置されている。火災が発生すると、半鐘の鳴らし方を変えて火元までの距離を人々に知らせた。 ジャーン………ジャーン………ジャーン   (一打)→火元は遠い ジャーンジャーン……ジャーンジャーン   (二打)→火消の出動 ジャンジャンジャン……ジャンジャンジャン (連打)→火元は近い 鐘の中で擦り回す             (乱打)→間近 ジャーン……ジャンジャーン…ジャーン……ジャンジャーン →鎮火

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■火消道具 火消の七つ道具は、纏(まとい)、竜吐水(りゅうどすい)、大団扇、梯子、鳶口(とびくち)、刺又(さすまた)、玄蕃桶(げんばおけ)であった。纏持ちは花形。いち早く現場に駆けつけ、ほかの組に遅れじと屋根に駆け上がって一番乗りの功名を争う。ここで火勢をくい止めろ、という目印にするのだが、ぎりぎりまで踏ん張って命を落す者も多かった。竜吐水は当時の放水ポンプのこと。玄蕃桶で水を入れ、ポンプ口から水を噴き上げて延焼を防ぐ。実際には、屋根上の纏持ち等に水を吹き付けて火の粉から護ることが多かったようだ。大団扇は迫り来る火の粉を払う道具。鳶口や刺又は、家屋を破壊するための道具。火消たちは現場に着く前に、全身にたっぷりと水を被って行く。果敢な働きによって火をくい止めることができると、そこの屋根に組の「消し札」を立てる。この消し札が町火消の勲章となった。 纏持ち 大団扇 鳶口 刺又 竜吐水 梯子 玄蕃桶