酒処を拝見!・・・その1

伊丹

 摂津の国、伊丹(現在の兵庫県伊丹市)は、鎌倉時代末期から戦国時代にかけては伊丹城(後の有岡城)の城下町、江戸時代初期からは池田(現在の大阪府池田市)と並ぶ日本最大の清酒の生産地として栄えた。清酒発祥の地と言われる鴻池村も、現在の伊丹市内にある。伊丹で作られた清酒は“丹醸(たんじょう)”と呼ばれ、高級酒として江戸でもてはやされた。
 市街地には現在も酒造メーカーや酒造に関する博物館があり、また、延宝2年(1674年)に建てられた酒蔵も保存されていて、“酒造の町”の面影を見ることができる。


白雪 長寿蔵 ミュージアム

 天文19年(1550年)創業、江戸時代以前から今日まで伊丹で酒造りを続ける小西酒造(株)の、日本酒とビールに関する博物館。江戸時代から使われている酒造りの道具や、模型と立体映像で再現される江戸時代の酒造りの様子を見ることができる。

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■酒造り道具
 江戸時代より、杜氏や蔵人によって使われた酒造りの道具200点余りが展示されている。写真手前の背の低い桶は「もと(酉に元と書く)」を掻き混ぜたり、摺ったりするのに使う「半切」、一番奥の大きな桶は醪(もろみ)の仕込みに使う「大桶」。


■麹室(こうじむろ)
 麹室は、麹を仕込むための、高温多湿を保つ小さな部屋。壁や天井にもみ殻やわらなどを断熱材として入れ、室内を炭火や湯で温めた。奥の棚の上の容器が麹を入れる麹ぶた。麹を繁殖させる時、すべてが均等に繁殖するように、それぞれの麹蓋の位置を何度か積み替える。


■酒槽(ふね)と搾り
 白濁した醪は、酒袋に入れられて、酒槽という箱の中に積まれる(写真左)。そして棒と石のおもしを使った巨大なてこで搾られる(写真右)。しみ出た酒のおりを沈澱させてできた、澄んだ部分が清酒。酒袋には酒かすが残る。


■マジカル・シーン・ビジョン
 20分の1のスケールで造られた酒蔵や酒造道具のミニュチュアの中で、立体映像の人物が動く。江戸時代の酒造りの様子を、分かりやすく見ることができる。


■頼山陽(らいさんよう)の筆による看板
 「日本外史」で知られる儒学者、頼山陽(1780-1832年)が伊丹に訪れた時に書いた看板。写真はミュージアムに隣接する小西酒造本社に展示されている原物。ミュージアムには複製が展示されている。


取材協力=白雪 長寿蔵 ミュージアム


旧岡田家住宅

 江戸時代から伊丹市街地に残る町屋。南側の店舗は、棟札によると延宝2年(1674年)の建築。年代が確実な17世紀の町屋としては、全国的にも貴重なもの。北側の酒蔵は正徳5年(1715年)ごろに建築されたもの。所有者が代わりながらも、昭和59年まで酒造りが行われていた。
 平成4年に国の重要文化財に指定され、解体修理を経て、平成13年から一般公開されている。

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■店舗
 店舗の中。手前が土間。その奥が板敷の広敷と、座敷。


■酒搾りの遺構・・・男柱
 酒蔵の土の中から腐らずに発見された、正徳5年(1715年)ごろに造られたと考えられる、男柱の基礎部分。(写真の柱の下の方、木の色が異なる、←の部分。上部は再現されたもの。)
 酒搾りでは、ドロドロの醪(もろみ)を入れた酒袋を酒槽(ふね)に重ね、男柱(縦になっている柱)に差し込んだ、はね棒(横になっている棒)の先に、石のおもしをぶら下げ、巨大なてこで酒を搾った。


■男柱
 市内の別の場所で発掘された、江戸時代後期の男柱。

■酒造用のかまど
 文化・文政ごろ(1804〜30年)にこの場所に石と粘土でかまどが造られ、明治時代に入りレンガ造りのかまどに造り替えられた。大小2基のかまどが並び、燃料を補給する焚き口は、階段を降りた地下にある。昭和59年の酒蔵廃業時まで使われていた。


■井戸と洗い場
 店舗の土間から続く場所にある、井戸と洗い場。


取材協力=伊丹市文化振興財団、伊丹市文化財保存協会


鴻池稲荷祠碑(こうのいけいなりしひ)

 清酒発祥の地と言われる旧鴻池村、現在の伊丹市鴻池に建つ、405字の碑文が刻まれた碑。碑文によると、鴻池家は戦国時代の武将、山中鹿之介の子孫、幸元を初代とし、慶長5年(1600年)、この地において清酒造りに成功したとある。清酒造りで財を成した山中家は、屋敷の裏にある“鴻池”という名の池に因んで苗字を鴻池と名乗り、大坂へ進出し、海運業・両替商を営み、豪商鴻池家となった。
 碑の製作は、寛政12年(1800年)ごろと推定されている。


鴻池稲荷祠碑の近くにある、清酒発祥の地の記念碑。

取材協力=伊丹市、伊丹市教育委員会、伊丹市鴻池財産区