解説 お江戸の科学
日本酒造りの発明・発見
日本酒造りは室町時代から江戸時代にかけて、仕込み技術の確立、酒造りに適した水の発見、精米技術や火入れ、あるいは酒造道具の確信などにより、完成されていった。
清酒の発明は室町時代に奈良の僧坊で造られた南部諸白(もろはく)がはじめといわれる。それまでは麹(こうじ)造りに玄米を使用した片白(かたはく)で、濁り酒に近い酒だった。(濁り酒は、)醪(もろみ)を搾らない白く濁った酒。)南部諸白は、麹米と仕込みようの掛け米の両方を精白したので諸白(もろは、双白)と呼んだ。江戸時代になると、上方で造られた諸白酒は、江戸市場に送られた。 清酒の江戸積みについては、鴻池家の家伝がよく知られる。大阪の北西、伊丹近くの鴻池村で山中鹿之助の長男(次男説もある)新六(幸元)が、諸白を使った産談じ込みによる酒造技術を用い、江戸時代初期に清酒の醸造法を確立。すっきり洗練された酒を造った。新六はこの酒を、江戸に送り出して、大成功をおさめた。この成功により、伊丹、池田で酒の生産が拡大され、船積みされて大量に江戸へ送られるようになった。新六の八男、善右衛門は生を出身地の鴻池と改め、大阪随一の豪商となった。
精米は玄米の外側に多い脂肪やたんぱく質を取り除き、でんぷん質の割合を高める作業。江戸初期から伊丹、池田などで行われていた人力による足踏み精米では、精米歩合(玄米に対する精白米の質量)は90%ほどだったが、やがて後期に灘で水車による大量精米技術が開発され、精米歩合は80%ほどになって酒質が向上した。その後同じ灘地方で1840年酒造りに適したミネラル豊富な宮水(西宮の水=六甲山系から浸透した地下水)が発見された事で、灘の酒は寒仕込みの技術と合わせて、質量ともに伊丹、池田をしのぐようになった。
江戸の初期の酒造りは通年行われていた。その中で、特に良品の酒が得られたのが、冬に仕込んだ“寒仕込み”だった。江戸の中期頃から、こと灘で寒い冬にじっくり仕込む寒仕込みが主流になったのは、温度管理技術の向上や冬季の労働力の確保(杜氏を頭とする酒造り集団は農業従事者が多いので、農閑期の冬に酒造りに集中できる)、酒蔵の大型化や酒造り道具の進歩によって、良質の酒の大量生産が可能になったためである。 寒仕込みによって酸化や腐敗のリスクが減り、さらに「火入れ」という低温殺菌をすることで、高品質な酒を保存できるようにたった。これはd啓太酒を60℃で10〜15分間加熱する作業である。火入れにより、雑菌は死ぬが酒は変質しない。火入れの技術は1560年(室町時代)頃にすでに行われていた。ヨーロッパでパスツールが、低温殺菌によりワインなどの腐敗を防ぐ方法を発見するのは、ずっと後の1866年のことである。