酒処を拝見!・・・その2

 江戸時代後期に酒処として急成長した灘は、現在の神戸市から西宮市にかけての海岸地帯。酒造りに適したミネラル分の高い水「宮水」の発見、六甲山系から流れ出る急流の河川を利用した水車による精米、海岸地帯に造った大規模な酒蔵で仕込み時期を寒気に集中した「寒造り」、酒を船積みするのに適した海岸地帯の立地条件など、酒造りに適した環境を活かし、やがては先進酒造地である伊丹や池田を上回る量の酒を生産するようになった。
 現在でもこの地域を歩くと、数多くの酒造メーカーの工場や、酒に関する博物館、資料館を見ることができる。


白鶴酒造資料館

 神戸市東灘区にある、白鶴酒造(株)の資料館。大正初期に建造され、昭和44年まで使われていた酒蔵が、現在資料館になっている。館内では古い酒造道具と原寸大の人形で、昔の酒造りの工程を見ることができる。

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■阿弥陀車(あみだぐるま)と大桶
 2階建ての酒蔵で、大きな酒造道具を1階と2階で上げ下げする際に使われるのが、八角形の「阿弥陀車」(写真・上)。写真は、33石(一升びん3300本分)の容積の大桶を、阿弥陀車で引き上げている。


■甑(こしき)取り
 米は大釜の上に甑(こしき)を乗せて蒸される。甑の底には小さな穴があり、沸騰した釜の蒸気が上がるようになっている。「甑取り」は甑の中に入り、蒸した米を取り出す作業。


■麹(こうじ)造り
 蒸し米に麹菌を繁殖させたものが麹。麹造りは、高温多湿を保つ、小さくて天井が低い部屋「麹室(こうじむろ)」で行われる。蒸して冷ました米に種麹を振りかけ、よくもんで麹菌を付着させ(とこもみ)、約20時間麹菌の繁殖を待つ。さらにもみほぐし(切り返し)、一定量ずつ「麹ぶた」という容器に入れて積み上げ(写真奥)、20時間ほどかけて仕上げる。


■もと摺り
 もとを仕込む際、背の低い桶「半切(はんぎり)」に、麹と蒸し米と水を入れて櫂(かい)で摺りつぶす作業が「もと摺り」。作業中は、調子を合わせ、作業時間を一定にするために、地方によって独自のもと摺すり唄が歌われた。


■櫂(かい)入れ
 大桶の上に上がり、発酵調整のために行う撹拌作業が「櫂入れ」。


■樽詰め
 杉の四斗樽に清酒を入れ、銘柄を入れた藁菰(わらごも)を樽に巻き、とじ縄をかけている様子。


■蔵人(くらびと)の食事風景
 昭和初期の蔵人の食事風景。酒造りの専門集団・蔵人には農業従事者が多く、寒造りでは、冬の農閑期に酒造を行う。蔵人を束ねる長が杜氏(とじ・とうじ)、以下職階は細かく分かれ、蔵人の上下関係は大変厳しかった。


取材協力=白鶴酒造資料館


菊正宗酒造記念館

 神戸市東灘区にある、菊正宗酒造(株)の記念館。昔の酒造りに使われた道具が展示されている酒造展示室があり、また、屋外には精米用水車小屋が再現されている。

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■水車小屋
 精米用の水車小屋を再現したもの。江戸時代、水車による精米は灘の酒造りの特長の1つで、六甲山系から流れ出る急流に設けた水車小屋で精米を行った。それ以前の足踏みによる精米に比べ、精白度の高い精白米を、大量に得ることに成功した。


■昭和初期の水車精米
 昭和初期の水車精米の様子。規模の大きいものでは1つの水車場に、100基を越える臼が並んでいた。


■樽廻船(模型)
 上方から江戸への酒輸送は慶長時代(1596〜1615)から始まり、当初は馬の背に乗せて陸上輸送をしていたが、程なく帆船による海上輸送となった。初期は菱垣(ひがき)廻船で他の商品と共に運ばれていたが、やがて酒専門の樽廻船で大量に、迅速に運ばれるようになった。大きな船では、一度に1000石(一升びんで10万本分)の酒を積み、10〜14日かけて江戸に運んだ。


■昭和初期の酒蔵
 昭和初期の酒蔵の前庭の様子。殺菌のため、大量の大桶が天日に干されている。


■酒造展示室
 昔の酒造りに使われた道具が展示され、当時の様子も再現されている。


取材協力=菊正宗酒造記念館


宮水発祥の地

 宮水(みやみず)とは、西宮市内の「宮水地帯」と呼ばれる地域で汲み上げられる地下水。宮水は酒造りに適したミネラル分を含んでいるため、灘で上質の酒を造ることができた。
 宮水が酒造りに適した水であることを発見したのは山邑太左衛門。西宮と魚崎で酒蔵を持つ太左衛門が、常に西宮で造る酒が上質であることから、その違いの原因を追究し、天保11年(1840年)に仕込み水に原因があったことを発見した。
 以来、灘の酒造家は宮水を運んで酒を造るようになり、現在でもこの地帯に各酒造メーカーが所有する井戸が並んでいる。
 写真・左は「宮水発祥の地」の記念碑。右は宮水の井戸。