5月
イラスト:留守key
Vol.2 セルゲイ・ラフマニノフ
(1873-1943 /ロシア)
Sergey Vasil'yevich Rakhmaninov
「ピアノ協奏曲第2番」や「交響曲第2番」など、数々の名曲を世に生み出したラフマニノフは、ピアニストとしても名声を博しました。モスクワ音楽院では、作曲をアレンスキー、ピアノをズヴェレフに師事。作曲・ピアノ演奏ともに優秀な成績で卒業しています。彼自身、自分の本領は作曲にあると考えていたようですが、超一流ピアニストとしても認識されています。
ロシア国内では、作曲家としての活動を中心に自作のピアノ演奏を行いました。1917年のロシア革命後、ラフマニノフ一家は祖国を離れ、やがてアメリカに移住。それ以降、アメリカでコンサート・ピアニストとして活躍、自作以外にもレパートリーを広げ、積極的に演奏活動を行いました。
ロシアを離れてから作曲活動が低迷したラフマニノフ。経済的な必要に迫られ、演奏活動で多忙を極めていたこともありましたが、故郷の地を離れたことで、作曲への希望を失ってしまいます。演奏家としてアメリカへ渡るという決断の裏には、二度と祖国へ足を踏み入れることのできなかった悲しみがありました。
2メートル近くの長身で知られるラフマニノフ。身長に比例するかのように、並外れた大きい手の持ち主だったことは有名です。ドの音を基点として、オクターブ上のソの音まで、なんと12度もカバーすることができたとか。クレムリンの宮殿の鐘を思わせるような豪壮さ、颯爽とした軽やかさ……その手が生み出す巧みな表現からは、数多くの名演が生まれました。
ラフマニノフは自作以外の作品を演奏する際、独自の解釈を行いました。特にショパンやシューマンの演奏に対して「あまりにも勝手な解釈だ」と評価されていたほど。ショパンの「ピアノ・ソナタ第2番《葬送》」の演奏は、奏法やダイナミクスにおいて、ショパンの解釈ではなく、作曲家としての一面を持ち合わせるラフマニノフだからこそ表現できる、独特の世界観を表現したことで有名です。
ロシア音楽の魅力が、留守keyの手によってドラマティックな漫画に!
スラーヴァ!ロシア音楽物語
グリンカからショスタコーヴィチへ
著:留守key
■A5 判/口絵8 頁+144 頁/本体価格1,300 円(税別)
11月
Vol.1 イグナツィ・ヤン・パデレフスキ
(1860‐1941/ポーランド)
Ignacy Jan PADEREWSKI
新しいコーナーのスタートです。オーケストラに登場するさまざまな楽器について、それぞれが活躍する曲をあげながらご紹介していきます。 第1回は「オーケストラ」のお話です。
1887年ウィーンでデビュー。翌年にはパリのサラ・エラールでシリーズコンサートを開催。その名声はヨーロッパにとどまらず、アメリカ、カナダにも拡大。その名演奏の数々は、美しい容貌と相まって聴衆を虜にし、カリスマ的存在となった。
ショパン演奏のスタンダード版といえる『パデレフスキ版』(ポーランド音楽出版社刊)の校訂者として有名だが、大半の作業は共同校訂者ルドヴィク・ブロナルスキ、ユゼフ・トゥルチィヌスキによるものである(パデレフスキは校訂が始まった1937年から4年後に逝去。1949年刊行開始・1961年完結)
1910年頃スランプに陥っていたパデレフスキは、演奏活動を中止し政治活動に専念することを決心。同年「グルンヴァルトの戦い」500周年の記念碑除幕式で演説を行い群衆を熱狂させた。1915年からは、ポーランド独立のために奔走。独立を勝ち取った1919年、ポーランドの初代首相に任命されヴェルサイユ条約締結の任も果たした(在任期間は10か月)。1939年に国政に復帰。スイスで政治的亡命者たちの活動の拠点を支援した。
ピアノ協奏曲やオペラ、交響曲などの作品を残しているが、何よりも作曲家パデレフスキを有名にしているのが「パデレフスキのメヌエット」で親しまれているピアノの小品で、自身も数回にわたってこの曲を録音している。ピアノ・ロールによる自身の演奏がネット上で聴けるので探してみよう。
パデレフスキを讃え、1923年にポーランド・パデレフスキ協会が発足。3年に1度「パデレフスキ国際ピアノコンクール」が開催されている。日本では、故・中村紘子氏が中心となって2016年に発足。現在は中村氏の遺志を継ぎ、ピアニスト横山幸雄氏が会長となり、活動を継続している。協会のサイトには、パデレフスキの貴重な写真の数々や、演奏動画がアッ・ロールプされているのでチェックしてみよう!
http://paderewski.jp/
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