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5月

5月7日は交響曲第9番が初演された日!!
Ludwig van Beethoven (1770−1827)

1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場で、ベートーヴェンの交響曲、第9番が初演されました。

★それから約1世紀を経た1918年(大正7年)6月1日、日本で第九が初演されます。場所は徳島県鳴門市。第一次世界大戦のさなか、鳴門市の大麻町には板東俘虜収容所があり、千人のドイツ兵が収容されていました。ここ板東収容所は、所長の松江豊寿中佐(1917年から大佐)の指揮のもと、捕虜に対して公正で友好的な対応をしたことで知られています。捕虜たちには自主活動が許され、地元の住民たちとの交流の中で、音楽をはじめとするドイツ文化の紹介も盛んに行われていたそうです。そうした中、捕虜たちで構成された徳島オーケストラの第2回演奏会で第九の全楽章が演奏されました。指揮は、軍楽隊長のヘルマン・リヒャルト・ハンゼン。ただ、場所が収容所内だったため、日本人の聴衆は収容所の関係者だけ。また楽器が足りずオルガンを代用したり、合唱は男声用に編曲されていたため、これを初演とするかどうかは意見が分かれるところらしいですが…

★このエピソードに基づいた映画「バルトの楽園」 (2006年公開/松平健、ブルーノ・ガンツ出演)をDVDで観ることができます。 男声用に編曲された合唱も聴けます

★日本の公式初演は、1924年11月。東京音楽学校(現東京藝術大学)がドイツ人教授、グスタフ・クローンの指揮によって演奏したものだとされています。(く)

4月

4月13日は【メサイア」が初演された日!!
Georg Friedrich Händel (1685−1759)!

数年前にアイルランドに旅行しました。
ヨーロッパの西の果てにある辺境の島国です。丸山薫(1899~1974)という詩人に「汽車にのって」という詩があって、「汽車に乗って/あいるらんどのやうな田舎へ行かう/ひとびとが祭りの日傘をくるくるまはし/日が照りながら雨のふる/あいるらんどのやうな田舎へ行かう」とうたわれているケルト民族の国です。首都はダブリン。ギネスビールや20世紀を代表する文豪ジェイムズ・ジョイスで有名です。首都とは言いながら、高層建築物などはない、大西洋からの偏西風が吹きぬけていく広い大空の下に、私たちが今の時代ともすれば忘れてしまいがちな“人間的な暮らし”が営まれているような街でした。

ダブリンでは、宿はそれほど値の張らない三ツ星クラスだったのですが、その屋号が「ジョージ フレデリック ハンデル ホテル」という名前だったのです。場所はパブなどが集中している飲食店街であるテンプルバーのはずれ、フィッシャンブル街です。
狭いフロントの奥の壁に屋号の由来の説明書きが掛けられていました。そこには、1742年の4月13日にこの場所でヘンデルのオラトリオ「メサイア」が初演されたと書かれていました。
ドイツのハレ出身のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは英国に帰化し、名前も英語読みになって、いまやダブリンのホテルの屋号にもなっているのです。当時のアイルランドは英国の事実上の植民地で、支配階級は宗主国のイングランドからやってきていました。おそらく「メサイア」の聴衆の多くはイングランド出身の「アングロ・アイリッシュ」と呼ばれる人々だったと思います。600人収容できるホールに700人ほどの聴衆が詰めかけたそうです。ロンドンでのオペラ興業がうまくいかずに大きな負債をおっていたヘンデルにとって、この「メサイア」の成功は失地回復の契機となったようです。

「メサイア」とは救世主を意味するメシアの英語読みで、内容は英訳の新・旧約聖書の文言をそのままパッチワークのように構成して、間接的にイエス・キリストの生涯を想起させるものです。なんといっても合唱曲「ハレルヤ」が有名ですが、全編佳曲の宝庫です。
わが国ではクリスマスのシーズンによく演奏されるのですが、4月に初演されたことからもわかるように、もともとは復活祭(あるいは受難節)の時期に演奏されることが多かったようです。「メサイア」がダブリンで初演された詳しい事情や経緯はさておき、私のなかでは「メサイア」という大曲と古都ダブリンの街並みがなぜか分かち難く結びついているのです。(え)

3月

生誕300年3月8日はC.P.E.バッハ(1714-1788)のお誕生日!!

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、今年2014年に生誕300年をむかえました。ピアノ学習者のみなさまにとっておなじみのエマヌエルの作品は、コンクールの課題曲などにもよく選ばれる《アンナ・マグダレーナの音楽帳》の中の〈マーチ ニ長調 BWV Anh.122〉ではないでしょうか。

エマヌエルは、父J.S.バッハ、母マリア・バルバラ(J.S.バッハの最初の妻)の第2子で、父と同じく作曲家です。活動した地域によって「ベルリンのバッハ」「ハンブルクのバッハ」と呼ばれています。バッハ家の子どもたちの中ではもっとも多くの作品を残し、生前のその実績は父J.S.バッハを上回るほどで、エマヌエルが「大バッハ」と称賛されていました。音楽史上ではバロックと古典の二つの時代で活躍した音楽家として重要な存在です。

ベルリンでは、プロイセン皇太子であったフリードリヒ(後のフリードリヒ2世)の宮廷チェンバロ奏者として仕えました。フリードリヒの音楽趣味はたいへん保守的なもので、彼のフルート教師であるヨハン・ヨヒアム・クヴァンツ(1697-1773)が作曲した300のコンチェルトのみを、順繰りに演奏していたそうです。その趣味とは正反対に、エマヌエルは常に新たな可能性を追求し続けていました。ベルリン時代には『クラヴィア演奏の正しい技法についての試論』を出版し、チェンバロ奏者としての名声を確立します。エマヌエルのチェンバロの演奏については、フリードリヒも賞賛を惜しまなかったそうです。しかしフルート演奏を趣味としたフリードリヒの宮廷ではエマヌエルの作品はほとんど演奏されることはなく、フルート演奏の伴奏者として務めました。

やがて1767年、30年仕えたベルリン宮廷を離れ、ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)が楽長をしていた楽団の後任として、ハンブルクのヨハネウム・ハントなど主要な5つの教会の音楽監督に就任します。ハンブルクでは、ライプツィヒ時代の父のように職務の一環として教会や街の様々な行事に音楽を提供し、さらに自ら定期的な公開演奏会を企画・開催したり、自身の作品の出版も行いました。

エマヌエルは、兄弟の誰よりも父親を尊敬し、バッハ家の音楽的・宗教的伝統への忠誠を自覚し続けていたようです。ちなみにエマヌエルの名付け親は、父の友人でもあったテレマンだそうです。エマヌエルの名前にある「フィリップ」は、テレマンの名前にちなんだものです。ベルリンを離れ(フリードリヒの趣味に嫌気がさしたという記録もあります)、ハンブルクへ移ったのも、テレマンへの恩に報いるためだったのかもしれません。(の)

おすすめCDを1枚→
C.P.E.バッハ フルート・ソナタ集 〜クヴァンツ・フルートによる〜
[浜松市楽器博物館/LMCD-1976]
演奏:有田正弘(フルート)、有田千代子(チェンバロ)

2月

2月9日はアルバン・ベルク(1885-1935)のお誕生日!!

音楽史上に“新ウィーン楽派”という呼称があります。師匠格のアルノルト・シェーンベルクにアントン・ウェーベルンとアルバン・ベルクの3人のことをいいます。3人ともウィーンに生まれ、20世紀初頭から前半にかけて活躍しました。もちろん、18世紀末から19世紀初頭にかけての“ウィーン古典派”、すなわちハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの偉大な3人を念頭においての呼称ですが、人々からの親しまれ方ということでくらべるなら、両者には雲泥の開きがあります。

“新ウィーン楽派”の音楽をひと言で言うと、無調から十二音技法の音楽ということになります。音楽史の教科書の記述だけでさえうんざりという方も多いかもしれませんね。しかしながら、音楽史的な評価も定まり、それほど多くはないにしても演奏会のレパートリーとして定着もしました。録音も多数あります。好き嫌いはともかくとして、先入観や予断なしで耳を傾ける機会があってもいいかと思います。それには、3人の中で体質的にもっとも後期ロマン派的な要素が濃厚なアルバン・ベルクの音楽が最適かもしれません。

ベルクが生まれたのは1885年2月9日です。裕福な家庭ではありましたが、早くに父親を亡くすなど、さほど恵まれた生涯を送ったわけではありません。“新ウィーン楽派”では最若年の50歳で死去しています。遺された作品は、長命ではないことを考慮するにしても、あまりにも少ない。亡くなった吉田秀和さんが、かつてラジオ番組「名曲のたのしみ」で紹介した逸話ですが、あんまり数が少ないので作品番号を付けるのを途中でやめたという話もあるそうです(*)。作品番号がついた最後は歌劇「ヴォツェック」(作品7)のようです。結局、未完の歌劇「ルル」を入れても、作品1の名曲ピアノ・ソナタから数えて全部で20作品に満たないのです。

もちろん作品の少なさは才能の多寡と無関係です。ベルクが遺した作品はどれもがながく演奏され、聴きこまれる価値があります。その価値がピンと来ないのであれば、くりかえし幾度も聴いてみるより他に方法はないでしょう。たとえばCDなどについている解説を読んだところで、おそらくは余計にわからなくなるのがオチです。しかし、いったん理解の糸口を捉まえたなら、すでにベルクの音楽の魔性にがんじがらめとなっている可能性が強いと思います。

世界的ピアニストである内田光子さんが、ソリストとしてベルクの室内協奏曲を録音したおりのインタビューで、興味深いことを語っています。「シューマンとベルクは、本当のロマン派です。理屈、そして屁理屈をこねながら、それでも結局、最終的には、情に流されてしまう、それが本当のロマン派だと私は思うんです」(**)シューマンの音楽のように、熱烈な愛好家をもつベルクの音楽のひみつを垣間みせる、演奏家ならではの意見のように思います。(え)

* 「名曲のたのしみ、吉田秀和」第5巻(学研パブリッシング

1月

1月1日は弦楽四重奏「アメリカ」の初演 アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)

1月1日は弦楽四重奏「アメリカ」の初演 アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904))

1892年9月、ドヴォルザークはナショナル音楽院の院長に赴任するためニューヨークに渡ります。1890年にプラハ音楽院の教授に就任し、さらに同校から名誉博士号を、またイギリスのケンブリッジ大学から博士号を授与されるなど、ヨーロッパで名声を確立していたドヴォルザークが、こうして故郷を離れ新天地に赴いた背景には、アメリカの富豪夫人、ジャネット・サーバーの熱い思いがありました。

南北戦争(1861年−65年)後の経済発展によって、19世紀末のアメリカはイギリスをしのぐ世界一の工業国に成長していました。そこには石油のロックフェラー、鉄道のスタンフォード、鉄鋼のカーネギー、金融のモルガンら、巨大財閥が存在していました。彼らはアメリカの経済を支配しながら、一方では歴史をもつヨーロッパの文化や芸術を意識し、そこへの投資も惜しみませんでした。メトロポリタン歌劇場が開場したのもこの頃です(1883年)。そうした中で、サーバー夫人も「アメリカ固有の音楽の創作、音楽家の育成」という夢を実現するための学校、ナショナル音楽院を1885年に設立します。そして、その院長として、ドヴォルザークに白羽の矢を立てたのです。1891年、夫人はドヴォルザークに次のような手紙を送ります。  「どうぞナショナル音楽院の教授に就任してください。給料は年15,000ドルです。また貴方の作品を披露する演奏会を最低10回は開くことをお約束します」。教授に就任したばかりのプラハ音楽院のこともあり、返事を渋っていたドヴォルザークでしたが、その後も彼女の熱心な説得にあい2年間の契約で渡米を決意したのです。

アメリカ滞在中にドヴォルザークは、黒人霊歌やアメリカ先住民の歌などに触れ、大いなる刺激を受けます。そしてまず生まれたのが「交響曲第9番〈新世界より〉」です。1893年の初演は大成功を収めました。その後彼は、夏休みを利用してチェコからの移民のコミュニティがあるアイオワ州スピルヴィルに滞在します。同郷の人々に会い、祖国の文化や音楽に触れた彼は、スピルヴィル滞在中に一気に弦楽四重奏曲「アメリカ」を書き上げました。1893年6月のことです。ペンタトニックを使った第1楽章から始まり、黒人霊歌やボヘミア民謡が郷愁を誘う第2楽章、第3楽章にはスピルヴィルで聞いた鳥のさえずりも描かれているこの曲は、「民族的な要素が弦楽四重奏曲に見事に昇華された名作」といわれています。

1895年2月ドヴォルザークは、晩年の名作のひとつ「チェロ協奏曲」を仕上げ、翌々月の4月に故郷に向けてアメリカを発ったのでした。(く)

●おすすめCDを1枚⇒演奏:アルバン・ベルク四重奏団[EMIクラシックス/TOCE14084] 

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