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3月
♪仰げば尊し わが師の恩
教えの庭にも はや いくとせ
卒業の季節がやってきました。最近は卒業式もすっかり様変わりして、この「仰げば尊し」を歌う学校は少なくなっているようですが、ある年代以上の方々にとっては、なつかしさや感傷的な気持ちでいっぱいになる1曲ではないでしょうか? 平成19年(2007年)には日本の歌百選の1曲となっています。
「仰げば尊し」が発表されたのは明治17年(1884年)発行の『小学唱歌集(3)』でした。この当時の唱歌は合作によるものが多かったので、未だに作者が限定されない曲がたくさんあります。この曲もそんな1曲で、作者不詳として今日まできています。
そうした中、この曲の原曲とみられる歌の楽譜がアメリカで発見されたというニュースが2011年1月24日に発表されました。ご覧になった方も多いのではないでしょうか? 発見したのは一橋大学の名誉教授の桜井雅人さん。以下は新聞記事からの抜粋です。
<桜井さんによると、曲名は「SONG FOR THE CLOSE OF SCHOOL」。米国で1871年に出版された音楽教材に楽譜が載っていた。直訳すると「学校教育の終りのための歌」で、友人や教室との別れを歌った歌詞という。作詞はT.H.ブロスナン、作曲はH.N.Dと記されていた。旋律もフェルマータの位置も「あおげば尊し」と全く同じという。桜井さんは約10年前から唱歌などの原曲を研究。何十曲もの旋律を頭に入れ、古い歌集や賛美歌などを調べていたところ、1月上旬に楽譜を見つけた。(2011年1月24日共同通信)>
原曲が判明したとはいえ、この曲がどのようにして日本に入ってきたのか、作詞・作曲者は誰なのか、日本語の歌詞は誰によるものなのか…、まだまだ分からないことがたくさんあります。桜井さんは、「日本にはたどれる資料がなく、今の米国でも知られていない歌。作詞・作曲者の実像など不明な点も多く、今後解明されればうれしい」と話しています。
アメリカで生まれ、日本に伝わった「仰げば尊し」。このニュースはアメリカにも伝わり、あるハイスクールでは、故郷に帰ってきた「SONG FOR THE CLOSE OF SCHOOL」を再演したそうで、その映像は今でもYouTubeで観ることができます。
歌詞が時代にそぐわず今は歌われる機会が少なくなったこの曲ですが、もう一度口ずさみながら、原曲がたどった旅に思いを馳せてみませんか。(く)
1月
ペチカ
♪雪のふる夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
むかしむかしよ
燃えろよ ペチカ
明治38年(1905年)、日露戦争に勝利した日本は、満州に鉄道会社を設立するなど、植民地化に向けて進出を図っていきました。日本からの移民も増えていく中、大正11年(1922年)、子どもたちが満州に親しみを持つことのできる教科書を発行しようと、南満州教育会教科書編集部が設立されます。日本の風土と満州の風土がかけ離れていることから、これまで日本の文部省唱歌を使ってきた唱歌についても “満州色豊かな歌”をまとめた副読本を作成する作業が始まり、教育会は、北原白秋、野口雨情、巖谷小波(いわやさざなみ)ら詩人たちと、山田耕筰、梁田貞(やなだただし)、中田章ら作曲家に新曲を依頼します。
「ペチカ」はこの副読本のために作られた曲だったのです。作詞は北原白秋、作曲は山田耕筰。大正13年(1924年)『満州唱歌集~尋常科第一・第二学年用』に発表されました。この時同時に、この二人による名曲、「待ちぼうけ」も発表されています。
満州の冬は日本の比ではなく、山野も凍るといわれているほどの極寒の世界です。「ペチカ」は当時シベリアや北欧で使用されていた、石やレンガで造られた大型の暖房装置で、火そのものではなく暖められた石やレンガが部屋全体を暖める機能を持っていました。そんな「ペチカ」のある生活を楽しんでいる人びとを歌ったこの曲は、満州での生活に対する不安を憧れに変える役目も担っていたのです。2番の歌詞「栗や、栗や」は、満州の冬の風物詩でもある路上の菓子売りの声。当時は栗のほかにも、杏に砂糖をまぶした糖果児(タンホール)や焼き芋売りの声が行き交っていたそうです。
昭和6年(1931年)に満州事変が勃発。以降、「満蒙開拓団」が組織され、多くの日本人家族が入植します。そして昭和7年(1932年)、満州国の建国が宣言されました。(く)
*参照 『わたしの心の歌-冬』(学研パブリッシング 刊)
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