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今月のHappy Birthday!

5月
♪アレッサンドロ・スカルラッティ(イタリア/指揮者/1660.5.2生)
イタリアの作曲家。ベルカントを中心としたオペラにおけるナポリ楽派の創始者です。1679年に、最初のオペラと考えられる《顔の取り違え》がローマで上演され、大成功をおさめます。スウェーデンの元女王にこのオペラを高く評価され、1684年にナポリ総督宮廷礼拝堂の楽長に就任します。その後、ナポリでは多数のオペラの作曲、上演に携わりましたが、ローマのためにも数多くのオペラやオラトリオを提供、演奏し、フィレンツェなどのトスカーナの諸都市でも彼のオペラが上演されました。この他、カンタータというジャンルを打ち出した800曲におよぶ室内カンタータなどの宗教曲も残しています。
♪ヨハネス・ブラームス(ドイツ/作曲家/1833.5.7生)
コントラバス奏者だった父から音楽の手ほどきを受けた後、ピアノを本格的に学び、10歳の時に公開演奏会に出演します。それからすぐに音楽理論を学び始めました。20歳の時に友人の紹介でシューマンと出会い、親交を深めます。シューマンはブラームスの才能を高く評価し、彼を世に紹介するため『音楽新時報』に「新しい道」と題してブラームスを賞賛しました。シューマンの自殺未遂後、ブラームスはシューマンの死までシューマン家を援助します。シューマンの妻クララに恋愛感情を持ちますが、それはやがて深い友情となっていきました。作品はピアノ曲・歌曲・室内楽を中心としながら、後期は交響曲・協奏曲などの大作を残します。新古典派の作曲家と呼ばれ、同時代のリストやワーグナーらの新音楽とは一線を画しました。
♪ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(ロシア/作曲家/1840.5.7生)
音楽好きの両親のもとに7人姉弟の長男として生まれます。チャイコフスキーも7歳のときから家庭教師にピアノを習い音楽に熱中しますが、1850年に法律学校に入学します。その後1861年にロシア音楽協会の音楽教室で理論を学び始めたのが、彼の転機となりました。作品の中心は器楽曲で、《白鳥の湖》《眠りの森の美女》《くるみ割り人形》は彼の代名詞となっています。これらのバレエ音楽に加え、交響曲などの作品もメロディーがとても美しいので、初めて聴く人にも耳に馴染みやすいのが特徴です。
♪アナトーリ・リャードフ(ロシア/作曲家、音楽教師、指揮者/1855.5.11生)
音楽家の家系に生まれ、ペテルブルク音楽院において作曲をリムスキー=コルサコフに学びました。卒業後は母校で教鞭をとり、8年後の31歳のときには教授となっています。また指揮者としても活動するかたわら、20代半ばにはバラキレフ・グループ、30代半ばにはバリャーエフ・グループに加わり、音楽会の開催や出版事業に協力しました。42歳の頃から帝室地理協会の依頼により民謡の収集を始め、《ロシア民謡集全3巻》の編集も行っています。作曲家としては「ロシア5人組」の伝統を継承し、リアリスティックな音楽表現を追及しました。民話や民謡に基づく叙情的な管弦楽曲が多いことから、「音の精密画家」と呼ばれ、ショパン、シューマンの影響を感じられるピアノ小品も多数残しています。
♪フリードリヒ・グルダ(オーストリア/ピアニスト、作曲家/1930.5.16生)
1946年にジュネーブ国際コンクールで優勝を果たした世界を代表するピアニストです。ベートーヴェンの全ソナタを主として、バッハからラヴェル、ドビュッシー、プロコフィエフといった非常に幅広く多彩なレパートリーで聴衆を魅了します。クラシック作品の演奏に加え、ジャズスタイルの演奏、モダン・ハープシコードやリコーダー演奏のレコーディングなども行いました。日本人の女性と結婚したため、度々来日しています。
♪ネリー・メルバ(オーストラリア*/ソプラノ歌手/1861.5.19生)
美しい声と卓越した技巧で歴史に名を残すソプラノ歌手です。オーストラリアに生まれ、メルボルンで声楽を学びます。1882年、離婚を機に声楽家として生きる意志を固め、1886年ロンドンに行き本格的に勉強を始めました。パリでマルケージの弟子となってから急速に才能を伸ばし、1887年ブリュッセル王立歌劇場でデビュー。この時から本名の“ヘレン・ポーター・ミッシェル”ではなく、故郷メルボルンの名を縮めた“メルバ”と名乗り始めます。1889年にコヴェント・ガーデン王立歌劇場で《ロミオとジュリエット》のジュリエット役を演じ、その名を世界に広めました。コロラトゥーラ・ソプラノの第一人者として知られた時期もあり、その美しい歌声は「マダム・ストラディヴァリウス」と呼ばれたほどでした。幅広いレパートリーをもち、60歳を超えても衰えない、美しくすばらしい歌唱で多くの人の心を惹きつけました。
* お詫びと訂正
「学研おんがく通信2013年5月号」“Happy Birthday”コーナーに誤りがありました。
正しくは下記のとおりです。
読者の皆様に深くお詫び申し上げますとともに、ここに謹んで訂正させていただきます。

× 誤「オーストリア」 → ○ 正「オーストラリア」
♪エーリッヒ・クンツ(オーストリア/バス・バリトン歌手)/1909.5.20生)
オーストリアで生まれたバス・バリトン歌手です。ウィーン音楽アカデミーで声楽をハンス・ドゥハンに師事。26歳のときにトロッパウ(チェコ)の劇場でデビューすると、ウィーンをはじめ、ザルツブルクやバイロイトなどでも活躍しました。50歳のときに初来日しています。巧みな歌唱力と喜劇的なセンスを武器に、モーツァルトのフィガロやパパゲーノなどを好演し、高い評価を得ていました。
♪ハインツ・ホリガー(スイス/オーボエ奏者、作曲家、指揮者/1939.5.21生)
優れた音楽性と超絶的な技巧を誇るオーボエ奏者です。前衛的な音楽に対する理解と的確な演奏によって注目され、多くの作曲家が彼のためにオーボエ作品を書いています。ジュネーヴ、ミュンヘンの両国際コンクールのオーボエ部門で第1位を獲得してすぐ、ソリストとして五大陸の主要なコンサート・ホールで活動を開始。また同じ時期に“ホリガー・アンサンブル”を設立し、ハープ奏者である夫人とともに世界各地にて演奏旅行を行っています。大変な勉強家で、もともとベルン音楽大学で学びましたが、コンクール受賞後の1962年バーゼルで作曲をブーレーズに、1963年パリでオーボエをピエルロ、ピアノをルフェビュールに師事しました。オーボエ奏者のみならず、作曲家、教育者、また指揮者としても、幅広く活動しています。教育者としては1966年からはドイツのフライブルク高等音楽学校で教授をつとめ、指揮者としてはベルリン・フィル、ウィーン・フィルなどの世界の主要なオーケストラと長年にわたり共演しています。
♪リヒャルト・ワーグナー(ドイツ/作曲家/1813.5.22生)
従来の歌劇とは異なる、新しい音楽劇“楽劇”を創造した作曲家です。 楽劇は、音楽と演劇の一体化を求め、独自の世界観を作り出したものです。幼少期の頃からギリシャ神話やシェイクスピアに熱中し、自ら悲劇の創作を試みたとも言われていますが、ライプツィヒに移住した1827年頃に聞いたベートーヴェンに感銘を受け、音楽家になろうと決心し、同地の音楽教師に対位法等を学びます。1834年頃から貧困の逃亡生活を送り、創作活動に影響を及ぼすほど多くの困難に直面しています。作曲家として成功したのは、1842年にドレスデンで上演された《リエンツィ》からです。そして、自作の楽劇を上演するため、1876年にバイエルン王国の辺境バイロイトに新劇場を建設し、第1回「バイロイト音楽祭」を開催。この音楽祭は、現在もワーグナー作品を堪能する「祭」として、大変な盛況をみせています。《トリスタンとイゾルデ》《ニーベルングの指環》など、今でも多く演じられる名作を残しただけでなく、“トリスタン和音”などを取り入れた斬新な作風は後世の作曲家に大きな影響を与えています。
♪アリシア・デ・ラローチャ(スペイン/ピアニスト/1923.5.23生)
幼児期よりグラナドスの高弟であったフランク・マーシャルにピアノを学び、わずか5歳で公開演奏を行いました。マーシャル・アカデミーを卒業した後、本格的に演奏活動を開始。A.ルービンシュタインの推薦を受け、1947年以降フランスからヨーロッパ各国、アメリカと次々にデビューを果たし、ハリエット・コーエン賞、パデレフスキ記念メダルを受賞するなど、各地で高い評価を得ました。その後、デイム・マイラ・ヘス(1965年没)に続き「ピアノの女王」と呼ばれるようになり、更なる活躍をみせます。バッハやモーツァルト、ラヴェルなど多彩なレパートリーをもち、中でもグラナドス、アルベニスなどのスペイン音楽の演奏には定評があります。
♪イサーク・アルベニス(スペイン/ピアニスト、作曲家/1860.5.29生)
スペインの民族的な色彩感を現すピアノ曲をはじめ、オペラ作品、管弦楽曲、歌曲なども残しました。代表的なピアノ曲には、色彩的和声やモード、ギター奏法の影響が色濃く出ています。1890年以降はロンドン、パリで活躍しました。数々の有名なエピソード(音楽院を受験した時にふざけて鏡を割った、寮から脱走しアメリカ大陸へ渡り放浪した、など)があります。
♪ベニー・グッドマン(アメリカ/クラリネット奏者、バンドリーダー/1909.5.30生)
アメリカ、シカゴ生まれのジャズ・クラリネット奏者。早くから音楽的才能を見せ、クラシックのクラリネット奏法を学ぶ間にジャズに惹かれ、10代の頃からジャズ奏者として活躍し、1929年にニューヨークに出ます。その後は、色々な楽団や歌手のレコーディングに、ソロ奏者として放送やショーなどに数多く出演しました。1934年には編曲のヘンダーソン、ドラムのクルーパらとスイング・バンドを結成し、社交ダンスと結びついたジャズを演奏。「スイング王」と呼ばれました。クラシック曲の演奏にも定評があり、レコードや演奏会出演の実績もあります。1938年にはカーネギー・ホールでコンサートを行いました。演奏活動の他に映画にも出演しており、「ハリウッド・ホテル」の劇中では、代表曲である《シング・シング・シング》を演奏しています。
6月
♪ミハイル・グリンカ(ロシア/作曲家/1804.6.1生)
グリンカはロシア人として初めて国際的評価をうけた作曲家であり、ロシア国民楽派の創始者としても高く評価されています。彼はロシア民謡を導入したオペラや管弦楽曲を作曲したことでも有名ですが、彼自身が農民に囲まれて育ったことや、近くに住む叔父が所有していた農奴の小編成オーケストラが、グリンカの家に訪れた事などが影響しているといわれています。代表曲としてオペラ《ルスランとリュドミラ》、《イヴァン・スサーニン(皇帝にささげた命)》があります。
♪エドワード・エルガー(イギリス/作曲家/1857.6.2生)
近代のイギリスを代表する作曲家です。10歳の頃から独学で作曲を始め、16歳から地方の楽隊長、教会オルガニストなどを経て、1889年にロンドンで作曲活動を始めます。1896年に初演されたカンタータ《オラフ王の伝説より》によって認められ、《エニグマ(謎)変奏曲》、オラトリオ《ジェロンティアスの夢》で作風を確立、作曲家としての地位も定まりました。ブラームスやブルックナーなどを下地に、ワーグナー風の和声も駆使しながら自己の音楽を形成しました。行進曲《威風堂々》や《愛のあいさつ》など優れた作品を数多く残しました。
♪マルタ・アルゲリッチ(アルゼンチン/ピアニスト/1941.6.5生)
8歳でモーツァルトとベートーヴェンのピアノ協奏曲を弾いてデビューしました。1955年に外交官の父と一緒に渡欧し、マガロフ、グルダ、リパッティ夫人、ミケランジェリなどに師事します。1957年にブゾーニ国際コンクールとジュネーブ国際コンクールで1位に。1965年の第7回ショパン国際コンクールでは優勝を果たします。そのレパートリーは広く、バッハからメシアンに及び、人気・実力ともに世界トップレベルのピアニストとして、世界中から注目を浴びています。1970年に初来日して以降、何度も日本を訪れていて、彼女が総監督を務める「別府アルゲリッチ音楽祭」も毎年開催されています。
♪ロベルト・シューマン(ドイツ/作曲家/1810.6.8生)
書店を経営する父の影響で幼いころから本に親しみ、詩を作ったりなどして幼少期を過ごしました。音楽は8歳から学び、14歳でピアニストになります。ライプツィヒ大学では法律を学びますが興味を持てず、ハイデルベルク大学に移った後も法律よりもピアノと作曲、文学に熱中しました。1834年に『音楽新時報』を創刊し、ロマン主義音楽の啓蒙活動に力を注ぎます。ショパンを賞賛し、ブラームスを紹介した論文はとても有名です。しかし不幸にも1832年、右手を故障しピアニストを断念。それ以後はピアノ曲を中心とした創作活動に入ります。天才的なピアニストであったクララと結婚し、その年には歌曲が多数書かれ、ロマン派歌曲の歴史を開きました。その後も室内楽やオラトリオ、交響曲など広い分野にわたって作曲しています。
♪エドヴァルド・グリーグ(ノルウェー/作曲家/1843.6.15生)
「音の細密画家」「北欧のショパン」などと呼ばれ、細部にまで色彩的なニュアンスを浸透させたロマンティックな作品を数多く残した作曲家です。ピアニストの母親から手ほどきを受け、1858年にはノルウェーの名ヴァイオリニストであったO.ブルに才能を見出されて、ライプツィヒ音楽院に留学します。卒業後は、国民楽派としての地位を確立し、ノルウェーならではの音楽を目指しました。1867年、クリスチャニア(現オスロ)のフィルハーモニー指揮者と音楽院副院長に就任。作家との交流も深く、1872年には詩人ビョルソンによる劇音楽《十字軍の騎士シーグル》、1876年に文豪イプセンによる劇音楽《ペール・ギュント》を初演しています。管弦楽以外にもピアノ作品も多く残し、《叙情小曲集 全10集》、〈ピアノ協奏曲 イ短調〉などのほか、約170の歌曲があります。歌曲の多くは、妻であるソプラノ歌手ニーナの為に書かれました。
♪イーゴル・ストラヴィンスキー(ロシア/作曲家/1882.6.17生)
フランス国籍やアメリカ国籍を取得し、生涯を通して世界各国で活躍した作曲家です。9歳でピアノを習い始め、同時に和声や対位法の手ほどきを受けますが、大学は法学部に入学しました。そこでリムスキー=コルサコフの息子に出会い、後にコルサコフ本人に作曲の指導を受けることになります。ロシア・バレエ団のために彼が作曲した3大バレエ作品《火の鳥》《ペトルーシュカ》《春の祭典》は次々と成功し、センセーションを巻き起こしました。
♪イグナス・プレイエル(オーストリア/作曲家、楽譜出版、ピアノ製作/1757.6.18生)
当時としては先駆的に、音楽家かつ実業家として活躍しました。ウィーンで幼少よりヴァニュハルに音楽の手ほどきを受け、1772年から5年間は、エステルハージ家の縁戚であるエルデーディ伯爵の援助によりハイドンのもとで学びました。1777年からはエルデーディ伯爵家の宮廷楽長を務めます。1780年頃イタリアを訪問したとき、ナポリ王からの委嘱でオペラ《ハーディ・ガーディ》を作曲し、初演を成功させました。1783年、ストラスブール大聖堂の副楽長(のちに楽長)に就任。その後1795年にパリに移り住み、楽譜の出版と販売をはじめます。それから39年間、ベートーヴェン、クレメンティ、ハイドンなどのおよそ4000曲を次々に出版。ミニチュア・スコアの出版も手がけ、当時としては非常に画期的な取り組みをしました。また1807年にはピアノ製作業にも進出しています。
♪ピーター・ピアーズ(イギリス/テノール歌手/1910.6.22生)
ロンドンのロイヤル音楽カレッジで学び、エレナ・ゲルハルトに師事。1942年にホフマンを歌いオペラ歌手としてデビューしました。1946年にブリテンの「イギリス・オペラ・グループ」の設立に主要メンバーとして加わります。それからはブリテンが作曲したオペラや声楽作品の初演にピアーズが参加し、ピアーズが歌曲を歌う際にはブリテンが伴奏者として共演するなど良きパートナーであり親友でもあったようです。1956年にはブリテンと共に初来日しました。また、ふたりが設立したオールドバラ音楽祭は、現在も若手芸術家たちや新しい演出家によって引き継がれています。
♪ジェイムズ・レヴァイン(アメリカ/指揮者、ピアニスト/1943.6.23生)
4歳からピアノを始め、10歳のときにシンシナティ交響楽団との共演でピアニストとしてデビューしました。ジュリアード音楽学校にてピアノをW.レヴィン、また指揮法をウォーレンステインらに師事しています。21歳よりクリーヴランド管弦楽団の副指揮者を6年間務め、本格的な指揮活動を始めました。アメリカやイギリスの各地においてデビューを飾り、30歳のときにはメトロポリタン歌劇場の首席指揮者に迎えられました。2年後には同歌劇場の芸術監督となり、現在もその地位にいます。一方では、ピアニストとして伴奏や室内楽で活躍し、古典から現代まで幅広いレパートリーをこなしています。※近年は、健康不安から公演をキャンセル。メトロポリタンの2012、13年シリーズにも出演しない。
♪ピエール・フルニエ(フランス/チェリスト/1906.6.24生)
つややかな美しい音色と高雅で気品のある演奏から「チェロの貴公子」と呼ばれる、フランスのチェロ界の第一人者です。母親からピアノを学びますが、9歳の時に小児麻痺にかかり、足に障害を負ったためにチェリストを志すようになります。パリ音楽院でバズレールとエッカンに師事し、一等賞で卒業後の1924年、パリにてデビュー。以後、ソロや室内楽で世界各地に演奏旅行を行うほか、エコル・ノルマルやパリ音楽院の教授として後進の育成にも力を入れました。1963年には、フランスの最高勲章であるレジオン・ドヌール勲章が与えられています。同時代に活躍した作曲家のプーランクやマルティヌーからは、チェロ作品を献呈されています。
♪クラウディオ・アバド(イタリア/指揮者/1933.6.26生)
ヴァイオリニストで音楽学者の父とピアニストの母のもとに生まれ、兄は後にピアニスト・作曲家でミラノの音楽院院長という音楽一家に育ちました。ミラノのヴェルディ音楽院にてピアノ、作曲、指揮を学んだのち、ウィーン国立音楽院にて指揮をスワロフスキーに師事します。1958年にクーセヴィツキー賞を獲得、1963年にはミトロプロス国際コンクール第1位。スカラ座管弦楽団の首席指揮者に就任後、さらに音楽監督、芸術監督も務めました。1971年にはウィーン・フィルハーモニーの首席指揮者として契約し、翌年にはロンドン交響楽団の首席客演指揮者に招かれ、後に首席指揮者、音楽監督、また1989年にはベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者に選ばれました。
♪リチャード・ロジャース(アメリカ/作曲家/1902.6.28生)
ハリウッドの映画音楽やブロードウェイ・ミュージカル曲に多くの名作を残した不世出の作曲家です。作詞家ロレンツ・ハートと意気投合し、《ジャンボ》《パル・ジョーイ》などの作品で絶大なる人気を得て、1930年代のミュージカル界をリードしました。1943年にハートが亡くなった後は、作家オスカー・ハマースタイン2世とコンビを組み、《オクラホマ! 》を制作し、さらに《回転木馬》《サウンド・オブ・ミュージック》など名作ミュージカルを次々に発表。そしてロジャース&ハマースタインが作り上げた作品は、トニー賞、アカデミー賞、ピューリッツアー賞、グラミー賞、エミー賞を受賞しました。生涯に出版されたロジャースの曲は900作以上で、40作にものぼるブロードウェイ・ミュージカルを残しました。1998年、CBSニュースは“20世紀にもっとも影響を与えた20人”のひとりにロジャースを選出しています。
7月
♪ジョルジュ・サンド(フランス/作家/1804.7.1生)
サンドは作曲家・ショパンにとって生涯でもっとも大きな存在であり、彼を献身的に支えた女性作家です。本名はオーロール・デュパンといい、過去の結婚の際にもうけた二人の子どもを育てながら働く、非常にたくましくも行動的な女性でした。ショパンの才能を最優先した彼女は、彼の保養のために子どもと一緒にマヨルカ島を訪れ、ショパンが創作に没頭できるよう、日々の雑事をすべて引き受けました。サンドと共に過ごした日々のなかで、ショパンは多くの傑作を生み出しています。
♪クリフト・ヴィリバルト・グルック(オーストリア/作曲家/1714.7.2生)
グルックは18世紀最大のオペラ・セリアの作曲家といわれ、音楽講師としてマリー・アントワネットに仕えていたことでも有名です。彼が初めて発表したオペラ《アルタセルセ》は成功をおさめ、これをきっかけにミラノやヴェネツィア等の歌劇場からオペラの作曲を依頼されるようになります。1776年頃にグルックがオペラ改革を唱えたことにより、従来あったイタリア・オペラ派とグルック派とで激しい対立がおこり、オペラ愛好家達はイタリア派代表にピッチンニを選び対抗させます。この論争は<グルック・ピッチンニ論争>と言われ、今では歴史に残る出来事です。オペラ改革による独自の様式を用いた《オルフェオとエウリディーチェ》は彼の代表作となりました。
♪ウラディーミル・アシュケナージ(ロシア/ピアニスト、指揮者/1937.7.6生)
7歳でピアニストとしてデビューし、モスクワ音楽院で音楽を学びます。1955年のショパン国際ピアノコンクールで第2位に輝いたことを皮切りに、翌年のエリーザベト王妃国際音楽コンクール、1962年のチャイコフスキー国際コンクールで優勝をおさめ、ピアニストの地位を確立します。その後は、幅広いレパートリーと卓越したテクニックで世界中のファンを魅了していきます。1977年には、指揮者としてデビュー。世界各地のオーケストラを指揮し高い評価を得ます。日本では、NHK交響楽団の音楽監督を2004-07年まで務めました。
♪グスタフ・マーラー(オーストリア/作曲家/1860.7.7生)
幼い頃からすばらしい音楽的才能を示し、2歳のときにはすでに数百の民謡と兵士の歌などを覚えていたといいます。後にピアノ、音楽院ではそれに加えて作曲と指揮も学び、優秀な成績で卒業しました。ワーグナーに心酔し、各地の指揮者を務めた後、ウィーン宮廷歌劇場やメトロポリタン歌劇場に招かれ、ニューヨーク・フィルハーモニーの指揮も行い、高い名声を得ます。創作の2本の柱は交響曲と歌曲ですが、特に交響曲第5番は映画の名作「ベニスに死す」の音楽としても名高く、この曲は妻である“ウィーンの女神”アルマへのラブレターとして映画化もされました。
♪オットリーノ・レスピーギ(イタリア/作曲家/1879.7.9生)
イタリアの作曲家です。音楽家であった父からピアノとヴァイオリンを学び、1891年にボローニャの音楽学校に入学。サルティにヴァイオリンとヴィオラを師事、1898年からはトルキとマルトゥッチに作曲法を師事しました。1900年にペテルブルクの王立歌劇場のヴィオラ奏者となり、そこでリムスキー=コルサコフの作品を知って、彼に管弦楽法と作曲を学ぶようになります。他にR.シュトラウスにも大きな影響を受け、当時としては極めて新しい作曲技法を示し、近代的かつ色彩的な独自の作風により全ヨーロッパに名を広めました。代表作に「ローマ三部作」と呼ばれる交響詩《噴水》《松》《祭り》シリーズがあり、特に《ローマの松》は華麗なオーケストレーションで大変人気のある曲です。オペラが主流であったイタリアにおいては例外的に、オーケストラ作品や器楽に本領を発揮した作曲家です。
♪アイザック・スターン(アメリカ/ヴァイオリニスト/1920.7.21生)
ロシアで生まれてすぐにアメリカに移住します。8歳でヴァイオリンをはじめ、10歳でサンフランシスコ音楽院に入学。16歳の時に、サン=サーンスの《ヴァイオリン協奏曲 第3番》をサンフランシスコ交響楽団と共演してデビューします。1937年にはカーネギーホールでリサイタルを行い、大成功を収めました。その後、カーネギーホールの取り壊し反対運動の先頭に立ち、その存続に貢献し、ホール協会の会長を務めました。演奏旅行では世界のほとんどの国を訪れ、毎年100回以上の演奏会を行ったといわれています。真面目で温厚な性格で、若手の育成にも積極的に取り組み、一流の音楽家を多数育てあげた、世界でもっとも偉大なヴァイオリニストのひとりです。
♪マリア・ジョアン・ピリス(ポルトガル/ピアニスト/1944.7.23生)
3歳からピアノを始め、わずか6歳で演奏会を開きます。リスボンの音楽院で作曲とピアノをフランシーヌ・ブノワに学び、卒業する年の1960年ベルリンの国際青年コンクールで2位、リスボンのリスト・コンクールで1位を受賞し、グルベンキアン財団の奨学生としてドイツに留学します。ミュンヘン音楽大学ではローズル・シュミットに、ハノーファーではカール・エンゲルに学びました。1974年に『モーツァルト・ピアノ・ソナタ全集』を録音しましたが、その後1980年代前半から腕の故障により4年ほど活動を休止します。復帰後、再び『モーツァルト全集』の録音を試み、旧作と共に大好評を得ました。優れたモーツァルト演奏家として知られていますが、近年ではヴァイオリニストのオーギュスタン・デュメイとのデュオや、チェリストのジャン・ワンを加えたピアノ・トリオなど、室内楽でも活躍しています。
♪フェルディナント・バイエル(ドイツ/作曲家、ピアニスト/1803.7.25生)
「バイエル・ピアノ教則本」でその名が広く知られている、ドイツの作曲家・ピアニストです。教則本は、1880年(明治13年)に外国人教師として音楽取調掛に赴任してきたアメリカ人のL.W.メーソンによってもたらされました。バイエルはピアノ小品をたくさん残したことで知られていますが、当時流行していた管弦楽曲やオペラの旋律をピアノ用にやさしく編曲したりもしました。また自作のサロン風の幻想曲やディベルティメントも好評でした。
♪ジョン・フィールド(アイルランド/作曲家、ピアニスト/1782.7.26生)
「ノクターン(夜想曲)」の創始者として知られる作曲家です。音楽一家に生まれ、祖父に音楽の手ほどきを受けます。9歳からジョルダーニに師事。1792年にはピアニストとしてデビューしました。1793年ロンドンへ移りクレメンティに学び、翌年から共にパリやロシアで演奏旅行を行い成功を収めます。ピアニストとしてだけではなく作曲家としても活動し、7つのピアノ協奏曲、ピアノ・ソナタ、幻想曲、ポロネーズ、十数曲のノクターンなどを作曲しました。フィールドの「ノクターン」は古典的な様式から外れた自由な伴奏と今までにない美しい旋律によって構成され、ショパンの「ノクターン」に代表されるように、後世の作曲家達に大きな影響を与えました。
♪マリオ・デル=モナコ(イタリア/テノール歌手/1915.7.27生)
1950年代から60年代にかけて一世を風靡した、イタリアの代表的なテノール歌手です。フィレンツェに生まれ、ペーザロ音楽院で学び、13歳でマスネの《ナルシス》に出演。著名な指揮者であるセラフィンの招きで20歳の時からローマ歌劇場の研究所に入りますが、第2次世界大戦のため23歳から軍へ入隊します。それからも、往年の歌手のレコードを聴き独学で勉強し、25歳の時にミラノのプッチーニ劇場で軍属のまま《蝶々夫人》のピンカートン役でデビュー。退役後、31歳の時にミラノ・スカラ座の舞台に立ったことをきっかけに、国際的な活動を始めました。《アイーダ》のラダメス役や《オテロ》のオテロ役など、強い声の必要な男らしい役柄を最も得意とし、その情熱的で輝かしい声は「黄金のトランペット」と呼ばれました。その歌声は61歳で引退するまで変わらず、絶大な人気を誇ったイタリア・オペラ界の最大のスターの一人です。
♪エリンケ・グラナドス(スペイン/ピアニスト、作曲家/1867.7.27生)
19世紀末のスペインを代表するピアニスト、作曲家です。バルセロナ音楽院でプジョールにピアノを、ペドレルに作曲を学び、パリ音楽院でもピアノを学びました。ピアニストとして活躍する一方、本格的なピアノ曲の作曲に着手し、1890年代の前半に作曲された4巻12曲の《スペイン舞曲集》は彼の出世作となりました。音楽上の啓蒙運動・教育活動にも力を入れ、1901年からは「アカデミア・グラナドス」を開いて、多くの優れた音楽家たちを養成しました。また、スペインの作曲家、ピアニストであるイサーク・アルベニスと並んで、近代スペインの民族楽派の基礎を確立しました。
♪ペーター・シュライヤー(ドイツ/テノール歌手、指揮者/1935.7.29生)
父に音楽の手ほどきを受けたのち、1945年からドレスデンのクロイツ教会聖歌隊にボーイアルトとして加わり、9歳の時に《魔笛》の童子役を歌いました。63年にドレスデン国立歌劇場、2年後にベルリン国立歌劇場と契約し、翌年には宮廷歌手の称号を得ます。ベルモンテ、ドン・オッターヴィオ、フェルランド、タミーノなどモーツァルトのテノール役には定評がありますが、宗教音楽や歌曲の分野でも高い評価を受けています。1974年以来、たびたび来日しています。
8月
♪中田喜直(日本/作曲家/1923.8.1生)
《早春賦》の作曲家である父・中田章のもと、幼い頃からピアノや作曲に親しみます。東京音楽学校ピアノ科を卒業後、1946年に作曲グループ「新声会」に入り、作曲家の入野義朗らと知り合い本格的な創作活動が始まりました。1949年に《ピアノ・ソナタ》が日本音楽コンクール作曲室内楽部門で入賞。以来、数多くの賞を受けています。《夏の思い出》や《めだかの学校》《雪の降るまちを》など、今もなお歌い継がれている数々の歌曲を作曲。ピアノ教育にも力を入れており《こどものピアノ曲》や《こどものゆめ》など、こどものための作品集も多く残しました。作曲活動以外にも、日本童謡協会会長として童謡の振興につとめ、フェリス女学院大教授として長年教鞭をとりました。その他に、手の小さい日本人やこども向けの、鍵盤の幅が狭いピアノの普及にも精力的に取り組みました。
♪フェレンツ・フリッチャイ(ハンガリー/指揮者/1914.8.9生)
ハンガリー出身ですが、ドイツを中心に、またアメリカでも活躍した指揮者です。ブダペストの音楽院でコダーイとバルトークに師事。卒業後すぐに指揮者としてデビューし、1936年にハンガリーのセゲド歌劇場で指揮活動を始めます。1945年にブダペスト歌劇場の音楽監督になると同時に、ブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者にも就任し国際的に活躍します。その後、ベルリンに移り市立歌劇場およびRIAS交響楽団の音楽監督となり、1954年にはヒューストン交響楽団指揮者、1956年にはバイエルン国立歌劇場の音楽監督を務めますが、1959年にベルリンの音楽監督に復帰し、1961年には西ベルリンに“ベルリン・ドイツ・オペラ”を創設します。そこで指揮者も兼任し活発に活動を行いますが、1963年に49歳の若さで急逝しました。デビュー直後は鋭いリズム感による新鮮なアプローチで注目を集めましたが、後年は雄大でロマンティックな音楽に変化し、多くの観衆を魅了しました。
♪ビル・エヴァンス(アメリカ/ジャズ・ピアニスト/1929.8.16生)
少年時代にピアノ、ヴァイオリン、フルートなどを学び、16歳の時に、兄とバンドを結成しました。軍付属バンドのピアニストとして入隊した際にジャズを学び、兵役後、25歳の時からフリーのピアニストとして活動を始めます。2年後に録音した初リーダー作の《ニュー・ジャズ・コンセプション》は専門家から高い評価を得ます。モダン・ジャズの基礎がありつつも、そのスタイルやハーモニーは独創性にあふれ、知的なアド・リブによって演奏されるビルの音楽は、モダン・ジャズ界だけでなくピアニストにも大きな影響を与えました。今では世界のジャズ評論家によって最高のジャズ・ピアニストに選出されています。
♪アントニオ・サリエリ(イタリア/作曲家/1750.8.18生)
ウィーンで活躍したイタリア出身の作曲家です。幼い頃からシモーニと兄フランチェスコにハープシコードとヴァイオリンを学び、ぺシェッティから作曲の手ほどきを受けます。1766年にガスマンに認められウィーンへ同行。語学、対位法、演奏技法などを学びました。1770年にオペラ・ブッファの第1作目となる〈女文士たち〉、翌年にオペラ・セリア〈アルミーダ〉を上演し、若くしてオペラ作曲家としての名声を確立します。1774年には亡きガスマンの後任として宮廷作曲家と宮廷劇場指揮者に任命され、その後も数々の作品を上演。イタリア各地のみならずパリでも大成功を収めました。中でもボーマルシェ台本の〈タラール〉は最高傑作と言われています。晩年からは教育者としても力を発揮し、ベートーヴェン、シューベルト、チェルニー、リストなど、後世に名を残す作曲家達に影響を与えました。
♪ジョルジュ・エネスコ(ルーマニア/ヴァイオリニスト、作曲家/1881.8.19生)
20世紀のルーマニアを代表するヴァイオリニスト、作曲家です。4歳の時からヴァイオリンを習い始め、ウィーン音楽院で学んだのち、パリ音楽院でフォーレ、マスネらに師事。1889年にモルダヴィアでヴァイオリニストとしてデビューします。1902年にルイ・フルニエ、カセッラとトリオを組み、1904年にエネスコ四重奏団を結成。ヴァイオリニストの活動と並行して、ブクレシュティで“エネスコ作曲賞”を設けたり、ルーマニア国立歌劇場のこけら落としで《ローエングリーン》を指揮するなど、祖国での音楽活動のほか、世界各国で教鞭を取り優れた門下生を育てました。作曲家としては、ルーマニアの民族性を取り入れた作品を多く書き、その中でも管弦楽曲《ルーマニアの詩》《ルーマニア狂詩曲》は民族色の豊かな曲として有名です。
♪ヤーコポ・ペーリ(イタリア/作曲家、歌手/1561.8.20生)
イタリア生まれ。フィレンツェの貴族の家系の出身で、少年時代から音楽の才能を発揮します。1588年にはメディチ家の音楽家の一員となり、皇帝の婚礼の舞台音楽を作曲し、出演もしました。そして古代ギリシア劇の研究をしていた“カメラータ”に入り、リヌッチーニと出会います。1594年リヌッチーニの台本による音楽劇《ダフネ》の作曲依頼を受け、1598年に初演されました。この作品は「世界最初のオペラ」といわれ、作品改訂後も何度か上演されたのですが、残念ながら現在、楽譜は失われ台本のみが残っている状態です。その後、同じくリヌッチーニの台本による音楽劇《エウリディーチェ》を作曲、1600年の初演の際にはオルフェオ役を務めたと考えられています。この作品は、楽譜が揃っている作品の中では最も古く「世界最古のオペラ」といわれています。
♪バルトロメオ・ジュゼッペ・グアルネリ(イタリア/ヴァイオリン製作者/1698.8.21生)
イタリア・クレモナのヴァイオリン製作家の一族のなかで、最も優れた仕事をしたことで有名です。彼が作った楽器はストラディヴァリと並ぶ最高級品として評価が高く、それらはパガニーニ、スターンなどによって愛用されました。彼にまつわる伝説は多く、晩年はお酒を飲んで過ごし、牢獄で亡くなりました。
♪クロード・ドビュッシー(フランス/作曲家/1862.8.22生)
パリ郊外に生まれたものの、父親の仕事の影響で住居を転々とし、不安定な毎日を送りました。しかしひとたびピアノの手ほどきを受けると才能を現し、めでたくパリ音楽院に入学します。1984年にカンタータ《放蕩息子》でフランス作曲家の登竜門ローマ大賞を受賞。詩人や画家との交流も深め、1894年にはマラルメの詩の夢幻的な印象を音楽にした《牧神の午後への前奏曲》が作曲されます。ピアノ曲で有名な《子供の領分》は、娘エマに捧げられたものです。それまでの古典的な和声法は教会旋法・5音音階・全音音階で回避し、洗練された管弦楽法や多様なリズムを用い、響きを重視した作曲がなされました。
♪レナード・バーンスタイン(アメリカ/作曲家、指揮者/1918.8.25生)
アメリカのマサチューセッツ州で生まれ、ハーバード大学卒業後カーティス音楽学校で指揮と作曲を学びました。1943年にニューヨーク・フィルハーモニーの副指揮者となり、翌年ワルターの代役としてデビューし、大成功をおさめます。この頃から作曲家としても認められ、作曲家・指揮者として欧米を中心に大活躍しました。ミュージカル作品《ウエスト・サイド物語》とその映画化作品は、世界中を席巻しました。かの小澤征爾はアメリカ滞在時、タクシーに乗るたびどの運転手もそのメロディーを口ずさんでいた、と彼の作品が多くの人々に親しまれている様子を語っています。
♪カール・ベーム(オーストリア/指揮者/1894.8.28生)
グラーツ音楽院で音楽を学び、グラーツ歌劇場の練習指揮者として活動を始めた後1917年にデビューします。1921年頃から様々な国立歌劇場の音楽監督を務め、この間にR.シュトラウスと出会います。2人は親交を結び、べームはシュトラウスのオペラ《無口な女》と《ダフネ》の初演を指揮しました。この頃から活発にコンサートを行い、1954〜56年にウィーン国立歌劇場の総監督を務めたあとは、フリーの指揮者としてザルツブルク、バイロイト、ベルリン、ミラノ、ニューヨークなど各地で活動します。世界で初めてモーツァルトの交響曲全曲の録音を行うという偉業を成し遂げるなど、世界的に活躍した大指揮者です。
♪チャーリー・パーカー(アメリカ/ジャズ・サックス奏者/1920.8.29生)
「ヤードバード」「バード」という愛称で親しまれている、不世出のジャズ・サックス・プレーヤーです。モダン・ジャズの原型となった「ビバップ」を創り出した一人でもあり、このため「モダン・ジャズの父」とも呼ばれています。1933年リンカーン・ハイスクールに入り、ブラス・バンドで楽理とサックス奏法を学びます。2年後にはプロを目指すため中退。数々の楽団に所属しながらジャム・セッションに参加し、腕を磨き続けました。彼の天才的なアドリブと演奏は、34年という短い生涯にも関わらずジャズ界に大きな影響を与えており、「パーカー・スタイル」と呼ばれる演奏スタイルを生み出しました。
♪アミルカレ・ポンキエッリ(イタリア/作曲家/1834.8.31生)
9歳でミラノ音楽院に入学し、在学中に友人たちとオペレッタを制作したりしました。卒業後は教会のオルガニストとなりますが、一方でオペラ《婚約した人々》を完成させ、作曲家としてもデビューします。その後は次々と新作を発表し、指揮者としても活躍しました。ヴェルディを別にすると、プッチーニ以前19世紀中期のもっとも重要な作曲家のひとりであり、しばしばヴェルディの後継者と言われました。ヴェルディのドラマティックな作風と、新しい世代のリアリスティックな音楽の両者の要素を融合させた《ラ・ジョコンダ》は大成功し、現在でも頻繁に上演されます。ミラノ音楽院ではプッチーニとマスカーニを教えました。
9月
♪ヨハン・パッヘルベル(ドイツ/作曲家、オルガン奏者/1653.9.1生)
ドイツのオルガン奏者、作曲家です。ニュルンベルクやアルトドルフで音楽教育を受け、1673年ウィーンのシュテファン大聖堂の次席オルガン奏者となります。その後は、ドイツ、オーストリア各地の教会や宮廷で活躍し、当時最も優れたオルガン奏者のひとりといわれました。また、教会音楽の作曲家として、旋律的・調和的な明快さを強調した単純な対位法を用いて多くのコラール曲を編曲しました。「パッヘルベル・コラール」と呼ばれる彼の作品群は、J.S.バッハの創作にも大きな影響を及ぼしたといわれています。20世紀になり出版された《3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調》のカノンの部分が「パッヘルベルのカノン」として広く知られています。コラール前奏曲やフーガの発展に大きく貢献した、バロック中期における重要な作曲家のひとりです。
♪アントン・ブルックナー(オーストリア/作曲家/1824.9.4生)
ウィーン郊外で生まれ、教師一家に育った作曲家、オルガニストです。10歳頃から教会でオルガンを弾き始め、和声の基本やオルガン奏法を学びました。アントンは父のように教師になることが夢だったので、リンツにある教員養成学校に入学し、教員となります。学生のころから音楽に熱中していたものの、なかなか音楽家を天職とする自信が持てなかったようですが、やがて決意を固め、リンツ大聖堂のオルガニスト、そしてウィーン楽友教会の音楽学校にて理論科及びオルガンの教授を務めます。教会音楽の他にも長大な交響曲などを執筆し、初演後それらの多くに大改訂を重ねたことは有名です。
♪ジョン・ケージ(アメリカ/作曲家、詩人、思想家/1912.9.5生)
20世紀後半、もっとも影響力のあった作曲家を挙げるならケージがその筆頭でしょう。代表作としては、音楽史上最大の問題作《4分33秒》があります。建築やピアノを学んだ後、詩・絵画の創作とともに作曲を試み、19歳の頃に作曲家になることを決意しました。1930年代より打楽器のための作品やプリペアード・ピアノの発明や作品によって知られ、50年代には「偶然性音楽」をはじめた作曲家として西洋の音楽界に衝撃をもたらします。60年代にはライヴ・エレクトロニクスの先駆者としてマルチメディアのさまざまな実験を行うなど、常に新しい独創性に満ちた活動を行いました。ケージは実験音楽において、アメリカの伝統や民族音楽などとの親近性を示し、聴衆の参加や音を含む活動すべてを音楽として主張しました。
♪エフゲニー・スヴェトラーノフ(ロシア/指揮者/1928.9.6生)
母国ロシアの作曲家による交響曲などの作品を中心に指揮し、名声を高めた指揮者です。モスクワ音楽院在学中にモスクワ放送交響楽団を指揮して早くもデビューし、その後ボリショイ劇場の指揮者にも任命されます。レコーディングにも積極的に挑み、ロシア国民楽派から現代のロシア・オペラに至るまで、グリンカ以降のロシア作曲家による作品を数多く指揮し、それらの録音を残しました。いつの日からか、ロシア国立交響楽団を指揮する際には、自分の譜面台に赤い扇風機をつけるといった慣行があったようです。
♪アントン・ディアベッリ(オーストリア/作曲家/1781.9.6生)
ザルツブルグ大聖堂の少年聖歌隊員をつとめながら、ミヒャエル・ハイドン(フランツ・ハイドンの弟)に音楽を学びました。さらにミュンヘン高等ラテン語学校、ライテンハスラハ修道院を経て、1803年にはウィーンでピアノとギターの教師になりました。そのかたわら出版社の写譜や校正係をつとめ、仕事を通して知り合いになったベートーヴェンからは名指しで校正を任されるほどの信頼関係を築くことになります。後に、貯金をはたいて自ら出版社を設立し、優れた作品を世に送りました。特にシューベルトの作品を扱った功績は大きいものです。また、ベートーヴェンの作曲した《ディアベッリのワルツによる変奏曲》が、彼の名を世に知らしめ不滅のものとさせました。
♪ブルーノ・ワルター(ドイツ/指揮者、作曲家、ピアニスト/1876.9.15生)
ベルリンのシュテルン音楽院で学び、ピアニストとしてデビューしましたが、ハンス・フォン・ビューローが指揮する演奏会を聴いたことをきっかけに指揮者を目指しました。その後ドイツ各地で指揮の経験をしていたワルターは作曲家グスタフ・マーラーに指揮の才能を認められ、ウィーン宮廷歌劇場をはじめ数々の歌劇場の楽長を歴任します。またヨーロッパやアメリカの一流オーケストラ、ザルツブルク音楽祭にも招かれ、人気指揮者として活躍しました。ワルターは、マーラーの弟子であり親友でした。その生涯と芸術に大きな影響を受け、マーラーの死後は彼の作品紹介に努め、伝記を著し、マーラー協会を設立させました。
♪イグナツ・ホルツバウアー(オーストリア/作曲家/1711.9.17生)
オーストリアの作曲家です。父の反対もあり、独学で作曲を始めます。その後、ホレシャウ(モラヴィア)の宮廷楽長をはじめ、ウィーンの宮廷劇場指揮者を経て、1751年にシュトゥットガルトの宮廷上席楽長、1753年にはマンハイムの宮廷楽長を務めました。マンハイムでは、J.シュターミツの影響を示す優れた交響曲を多数作曲し、F.X.リヒターらとともに初期のマンハイム楽派の一員として知られました。ドイツ・オペラ《ギュンター・フォン・シュヴァルツブルク》は、モーツァルトにも高く評価された作品といわれています。晩年は耳の病に苦しみましたが、オラトリオ、シンフォニーなど、生涯に渡って様々なジャンルの作品を残しました。
♪クルト・ザンデルリンク(ドイツ/指揮者/1912.9.19生)
20世紀に活躍したドイツの指揮者です。幼い頃から音楽に興味をもち、ドイツで音楽家としてのキャリアをスタートさせます。1935年ソビエト連邦に亡命し(後にドイツに帰国)、1937年、モスクワでオペラを指揮してデビューを果たしました。ブラームスやチャイコフスキーを得意とし、ハリコフ・フィルハーモニー、ベルリン交響楽団など、数々の楽団の首席指揮者に就任。1975年からは欧米各国やオーストラリアなど外国での客演が多く、日本では何度も読売日本交響楽団を指揮し、同交響楽団の名誉指揮者に任じられます。彼を敬愛していたピアニスト・内田光子の希望で実現した「ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集」の録音は有名です。彼女は、2002年の引退記念演奏会にも駆けつけ、モーツァルトのピアノ協奏曲で共演しました。2012年の9月、生誕100周年を迎えます。
♪エットーレ・バスティアニーニ(イタリア/バリトン歌手/1922.9.24生)
イタリア・オペラで優れた業績を残した歌手です。地元の合唱団への参加が、彼の歌手人生のスタートとなります。当初はバス歌手として研鑽を積み、1945年のフィレンツェ国際コンクールでは1等賞を受賞。同年に《ラ・ボエーム》のコッリーニ役でデビューします。しかし低音域の発声が難しくなり、バリトンへ転向。メトロポリタン劇場における《椿姫》のジェルモン役で再デビューを果たしました。以降はスカラ座をはじめ、世界中の歌劇場で活躍し、その端正な佇まいと気品ある歌声で聴衆を魅了しました。
♪グレン・グールド(カナダ/ピアニスト、作曲家/1932.9.25生)
トロントの王立音楽院にてピアノと作曲を学び、14歳でトロント交響楽団との共演でピアニストデビューしました。1950年後半からアメリカ各地、モスクワやレニングラードへ、そしてウィーンではカラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演など、国際的な活動を展開し名声を得ました。しかし1964年頃からすべての演奏活動から身を引き、レコードを通しての音楽活動に専念しました。《ゴールベルグ変奏曲》をはじめバッハの作品を中心とした彼の演奏は、本来の表現様式に独自の解釈をプラスして示されています。演奏のほかにも、作曲家として室内楽や合唱とピアノのための作品などを残しています。
♪ジョージ・ガーシュウィン(アメリカ/作曲家、ピアニスト/1898.9.26生)
アメリカの作曲家、ピアニストです。13歳の時からピアノと和声を習い始めますが、ポピュラー・ソングに強く惹かれ、リミック楽譜出版の店頭ピアニストとなり、歌曲を作り始めます。1917年に作曲した《スワニー》がミュージカル《シンバッド》の中で歌われ、最初のヒット曲となりました。その後はブロードウェイ・ショーの曲を提供することが多くなり、ジャズ王で自ら楽団を率いるポール・ホワイトマンの依頼で《ラプソディー・イン・ブルー》を作曲、自ら初演し、「シンフォニック・ジャズ」と呼ばれる新しいジャンルの音楽が誕生したのです。以降、ミュージカルやポピュラー・ソングに加え、ピアノ協奏曲《パリのアメリカ人》や初の黒人だけのジャズ・オペラ《ポーギーとベス》などの優れた作品を多く残しました。20世紀前半に、最もアメリカ的な手法を作品に反映させ活躍した作曲家のひとりです。
♪ジャック・ティボー(フランス/ヴァイオリニスト/1880.9.27生)
パリ音楽院を首席で卒業し、その後指揮者エドゥアール・コロンヌとの出会いからコロンヌ管弦楽団の独奏者として活躍するようになります。1896年には同楽団の演奏会に年間50回以上も出演し、これが世界的名声を得るきっかけとなりました。1902年にはアメリカでデビューし、1920年代にはカルザス、コルトーと組んだトリオ(カザルス三重奏団)が話題となりました。指導者としても積極的に活動しますが、不運にも3度目の来日途中での飛行機事故によって、愛器のストラディヴァリウスと共にこの世を去りました。
10月
♪エトヴィン・フィッシャー
スイス生まれですが、主にドイツで活躍したピアニストです。スイスのバーゼル音楽院でピアノを学んだ後ドイツへ移り、シュテルン音楽院で教鞭をとります。1931年にはシュナーベルの後任としてベルリン音楽大学(現在のベルリン芸術大学)の教授に就任しました。一方でフィッシャー室内管弦楽団を組織し、優れたピアニストとして評価を得ます。主にバッハからブラームスまでのドイツの作曲家による作品を得意とし、楽譜の編纂や出版も行いました。
♪ヨーヨー・マ(アメリカ/チェリスト/1955.10.7生)
パリで生まれ4歳から父にチェロを学びます。7歳の時にニューヨークに移り、ジュリアード音楽院でレナード・ローズなどに師事。その後、ハーバード大学にも通い一般教養を学びました。協奏曲、ソロ・リサイタル、室内楽などの通常の演奏活動のほか、歌舞伎俳優の坂東玉三郎との共演、J.S.バッハの《無伴奏チェロ組曲》の映像化(舞台化)を試みるなど、新たな分野にも挑戦し続けています。今までに発表したアルバムは50枚以上にも及び、また15回獲得しているグラミー賞をはじめ数多くの賞を受賞しています。2010年には「世界的チェロ奏者」として、大統領自由勲章を授与されました。現在は、古代の貿易路シルクロードの文化・芸術・知的伝統を研究し、新しい音楽の創造と演奏を行う「シルクロード・プロジェクト」に積極的に取り組んでいます。日本でもシルクロード・アンサンブルを率いて2005年に愛知万博で公演を行いました。
♪武満徹(日本/作曲家/1930.10.8生)
日本を代表する国際的な現代作曲家です。16歳の時に進駐軍放送のシャンソンを聞いて作曲家になることを決意し、ほとんど独学で作品を残しました。琵琶や尺八を交響曲に取り入れた代表作《ノヴェンバー・ステップス》などで知られます。その他にも、テープ音楽をはじめ、室内楽やピアノ作品、映画やCM音楽においても活躍しました。彼の作品は、日本の伝統を重視しつつ洋楽の影響を受け創られた形式のないアンフォルメルのような、かつて例のない独創的なものです。また静かでありながら心の深部に浸透する力も持っています。彼の音楽は『音、沈黙と測りあえるほどに』という言葉にあるように、沈黙に含みを持たせた空間をつくることにありました。
♪カミーユ・サン=サーンス
サン=サーンスは幼少の頃から神童ぶりを発揮し、音楽以外にも幅広い分野に興味を示しました。文学や天文学についての著書もあり、博識な人物として知られています。その多才ゆえに得られた種々の要素を融合しながら創作活動を行った音楽家です。叔母からピアノの手ほどきをうけ、3歳半でピアノ曲を作曲、6歳になるとラテン語やギリシャ語、数学なども学び始めます。パリ音楽院ではオルガンを学び、数々の教会でオルガニストとして活躍。その傍ら創作活動も続けました。組曲≪動物の謝肉祭≫、交響曲第3番≪オルガンつき≫は彼の代表作です。更には国民音楽協会を設立し、フランク、フォーレ、シャブリエなどの作品を世に送り出しました。
♪ジュゼッペ・ヴェルディ(イタリア/オペラ作曲家/1813.10.10生)
19世紀を代表するイタリアのオペラ作曲家です。幼少期のヴェルディは、小さなスピネット以外にはなにひとつない貧しい音楽的環境に育ちましたが、独学に近い自主的な勉強と本能によって、10代半ばに数多くの習作を書きました。最初のオペラはミラノで成功を収めますが、2作目の喜劇は失敗。さらにこの作品を書いている途中で妻と幼子2人が無くなる悲劇に見舞われました。しかしその失意の中で《ナブッコ》(1843)をわずか3ヶ月で書き上げ、一躍注目を浴びました。作品の題材としては歴史的な事件を取り上げたものや、傾倒していたシェイクスピア戯曲をオペラ化したものも多くあります。年を重ねるたびにヴェルディの音楽は深みを増し、次々と傑作を生み出しました。代表作には、《リゴレット》《椿姫》《アイーダ》があります。
♪ルチアーノ・パヴァロッティ(イタリア/テノール歌手/1935.10.12生)
“キング・オブ・ハイC”と評された、イタリアのオペラ歌手です。またプラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスと共に「世界三大テノール」としても大変有名です。1961年レッジョ・エリーミアで国際コンクールに入賞したのち、《ラ・ボエーム》(プッチーニ作曲)のロンドルフォ役でデビューしました。その美声が認められ、直ちにロンドンをはじめとする世界各地で活躍しました。典型的なベル・カント唱法の明るい声質は、最高のテノーレ・リリコとして賞賛されています。同じイタリア出身で誕生日が2日違いのオペラ作曲家ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ諸役をレパートリーとして多く持っていました。1971年に初来日した際には、《リゴレット》(ヴェルディ作曲)のマントヴァ公爵を歌いました。
♪ゲオルク・ショルティ(イギリス/指揮者/1912.10.21生)
ブダペストのリスト音楽院でドボナーニ、バルトーク、コダーイらに師事。作曲、ピアノ、指揮を学びます。1930年からブダペスト歌劇場の指揮者として活動していましたが、1942年のジュネーヴ国際コンクールのピアノ部門で優勝し、ピアノ奏者としても名声を得ました。1946年にミュンヘンでベートーヴェン作曲のオペラ《フィデリオ》を指揮して成功を収め、これをきっかけに各地で活躍します。これまでにロサンゼルス・フィルハーモニック、コヴェント・ガーデン王立歌劇場、パリ管弦楽団、パリ・オペラ座などの音楽監督も務めました。1958年から1965年にかけ、上演に約15時間かかるといわれる楽劇《ニーベルングの指環》の全曲録音を世界で初めて行うという、偉業を成し遂げました。2012年の10月、生誕100周年を迎えます。
♪フランツ・リスト(ドイツ/ピアニスト、作曲家/1811.10.22生)
ハンガリー生まれのドイツのピアニスト、作曲家です。6歳からピアノを習いはじめ、8歳にもならない頃からバーデン、エステルハージ宮殿で演奏をして、貴族たちを驚かせました。24歳で駆け落ちしたマリー・ダグー伯爵夫人との間には、3人の子どもを授かります。そのうちのひとり次女コジマは、のちにリヒャルト・ワーグナーと結婚しました。36歳の時にカロリーネ・ヴィトゲンシュタイン公爵夫人と出会い、彼女の忠告でピアニストを引退して創作活動に専念しました。指揮の仕事を通じて管弦楽の経験を積み、創始した交響詩は、標題音楽のひとつで、詩的・絵画的内容を表現するものです。またリストは「詩的想念と音楽を結合した標題音楽こそが未来の音楽」と主張しました。
♪ジョルジュ・ビゼー(フランス/作曲家/1838.10.25生)
フランスの作曲家です。声楽教師の父とピアニストの母を持ち、幼少から音楽的才能を示します。10歳でパリ音楽院に入学。主に作曲をアレヴィとグノーに師事しました。1857年にローマ大賞を獲得し、ローマで作曲活動に励みますが、その後はパリに戻りオペラの創作に力を注ぎます。1872年にドーデの戯曲《アルルの女》の付随音楽27曲を書き、成功を収め、1874年には代表作《カルメン》が完成。翌年オペラ=コミック座で初演されますが、そのわずか3ヵ月後に36年の短い生涯を閉じたため、ビゼー自身が成功を知る事はできませんでした。現在では世界中で最も多く上演されるオペラとして高く評価されていますが、初演当初、その過激な内容から“野蛮なオペラ”として、聴衆や批評家たちに敬遠されていたともいわれています。
♪ニコロ・パガニーニ(イタリア/ヴァイオリニスト、作曲家/1782.10.27生)
ヴィルトゥオーゾの源泉といわれる19世紀最大のヴァイオリニストです。7歳の時に父からヴァイオリンの手ほどきを受け、11歳で初の演奏会を開きます。作曲家としても活躍したパガニーニですが、彼が生涯で作曲を学んだのはギレッティただ一人で、期間はわずか数ヶ月だったそうです。有名な作品の一つに《24のカプリース》があり、左手のピッツィカートやスタッカートとレガートの絶妙な使い分け等、超絶技巧を駆使しています。今までになかった技巧、音楽性、表現性は、のちのヴァイオリン音楽やロマン主義一般に大きな影響を与えたといわれています。《24のカプリース》はヴァイオリンの練習曲として用いられるだけでなく、リストやシューマン、ブラームスによってピアノ用に編曲されるなど、幅広く親しまれています。
11月
♪ワルター・ギーゼキング(ドイツ/ピアニスト/1895.11.5生)
フランスで生まれたドイツのピアニストです。ハノーファー音楽院でカルル・ライマーに師事。第一次世界大戦中はドイツ軍の軍楽隊に所属しましたが、1920年にベルリンでデビュー後、ヨーロッパ各地で演奏会を開き好評を得ます。1926年にはアメリカでもデビューしました。古典派音楽からフランス印象派音楽までレパートリーも幅広く、楽譜に忠実で、正確な技術と整然とした演奏は高い評価を受けています。特にモーツァルト、ドビュッシー、ラヴェルのスペシャリストとして名声を博し、ピアノ曲全集の録音を残しています。また、師ライマーとの共著『ピアノ奏法』は後のピアノ奏法に大きな影響を与えました。
♪ジョン・フィリップ・スーザ(アメリカ/作曲家、バンドリーダー/1854.11.6生)
「マーチ王」として多くの人に愛される作曲家、指揮者です。150曲近いマーチを作曲しました。幼少期から音楽が溢れている環境の中、ヴァイオリンと作曲を学び、ワシントンやフィラデルフィアの劇場で指揮者とヴァイオリン奏者として活動しました。第一次世界大戦までは海軍士官として任務に従事し、退役後は、スーザ吹奏楽団を再結成しました。アメリカ合衆国各地だけではなく世界中で公演し、人気を保ちました。マーチ以外にもオペレッタやオーケストラ作品なども残し、テューバを改良し軍楽隊に不可欠のスーザフォンも開発しました。
♪ジョーン・サザーランド(オーストラリア/ソプラノ歌手/1926.11.7生)
オーストラリアのソプラノ歌手です。母から歌の手ほどきを受け、シドニー音楽院で本格的に声楽を学びます。ロンドンの王立音楽アカデミーでも学び、1952年にロイヤル・オペラ・ハウスで上演された《魔笛》の第一の侍女役でデビューしました。その後、夫である指揮者のリチャード・ボニングから歌唱指導を受け、ベルカント・オペラの唱法を習得します。これを機に、1959年《ランメルモールのルチア》でプリマ・ドンナとしてデビュー。1961年にはメトロポリタン歌劇場、ミラノ・スカラ座でも同曲を上演し、高い評価を得ました。コロラトゥーラ・ソプラノとして世界的名声を博し、色彩豊かでムラのない歌唱は「ネリー・メルバの再来」とも呼ばれました。以後イタリアでは「とてつもない声を持つ女」と称賛され、1979年には、文化や学術、芸能などの分野で著しい功績があった女性に与えられる大英帝国勲章“DBE”の称号も与えられました。
♪フランソワ・クープラン(フランス/作曲家/1668.11.10生)
16世紀終わりから19世紀の中頃にかけて活躍したクープラン一家の中でも、数々の功績を残したフランソワは「大クープラン」と呼ばれています。父にオルガンの手ほどきを受け、11歳でパリのサン=ジェルヴェ聖堂のオルガン奏者に内定しました。その後第2の父と慕ったオルガン奏者ジャック・トムランに師事し、対位法、和声学、オルガンの即興演奏を本格的に学びます。1690年、最初の作曲作品である《2つのミサによるオルガン曲集》を発表。有名な《クラブサン曲集》(全4巻)は、当時愛好されたリュート奏法を参考にした装飾音を多用しており、27の組曲からなる230曲余りの小曲にはそれぞれ独特な題名がついています。演奏法を記した書物『クラブサン奏法』では、装飾音や指使い、レガート奏法の問題を的確に考察していて、J.S.バッハやヘンデルらも影響を受けたと言われています。
♪アーロン・コープランド(アメリカ/作曲家/1900.11.14生)
20世紀のアメリカを代表する作曲家です。ロシア系ユダヤ人の家に生まれ、14歳から本格的な音楽教育を受け、15歳の時に作曲家を志したと言われています。1921年にパリへ留学し、当時の最先端の音楽に影響を受けます。帰国後に《オルガンと管弦楽のための交響曲》を初演、アメリカの音楽家たちから注目され始めました。その後、ジャズや民族音楽などを積極的に取り入れたアメリカ音楽の作風を用いて《エル・サロン・メヒコ》やバレエ音楽《アパラチアの春》などを作曲し成功を収めます。その他、数々の映画音楽も作曲し、『女相続人』ではアカデミー賞を受賞しています。作曲以外の活動にも広く携わり、音楽教授や評論の分野、指揮者としても活躍しました。
♪イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(ポーランド/ピアニスト、作曲家、政治家/1860.11.18生)
ワルシャワ音楽院でピアノ、ベルリンで作曲を学び、以降ウィーンをはじめ世界各国でリストの伝統を受け継ぐピアニストとして活躍します。1909年ワルシャワ音楽院院長を経て、1919年にはポーランド共和国の首相に就任し、政治家としても名を知らしめました。1922年には演奏活動を再開し、1937年にはショパン作品全集(パデレフスキ版)の編集も行いました。パデレフスキの個性的な演奏は当時の人を魅了し、また、特にショパン作品の演奏においては大きな影響を与えました。作曲家としては大変保守的で、ポーランド民謡を取り入れたものが多くあります。
♪アグネス・バルツァ(ギリシャ/メゾ・ソプラノ歌手、女優/1944.11.19生)
ギリシャのレフガタ島で生まれ、幼い頃からピアノと声楽を学びます。1965年にアテネ音楽院を卒業し、マリアカラス奨学金を獲得してミュンヘンへ留学しました。1968年フランクフルト歌劇場にて《フィガロの結婚》のケルビーノ役でデビュー、1970年にはウィーン国立歌劇場で《ばらの騎士》のオクタヴィアン役を務め、“ズボン役”歌手として知られるようになりました。数々の幅広いレパートリーを持っている中で、世界的にはテノール歌手のホセ・カレーラスと共演した《カルメン》が有名です。また1992年に行われたバルセロナ・オリンピックのオリンピック旗入場の際にも、美しい歌声を披露しました。
♪ホアキン・ロドリーゴ(スペイン/作曲家、ピアニスト/1901.11.22生)
音楽院で作曲とピアノを学んだ後、パリでデュカスに師事しました。スペインの伝統的な音楽と宮廷風のバロック音楽、フランス近現音楽などをミックスさせた作風を確立し、シンプルで可能性の強い作品を多数残しました。ロドリーゴは、作曲家として、ピアニストとして、美しい音楽を創りあげただけではなく、教職、放送関係の重職、評論、世界各地への講演旅行などに幅広く活躍しました。《アランフェス協奏曲》を筆頭にギター作品が多数を占めるため、ギタリストに間違われることもあります。
12月
♪マリア・カラス(アメリカ/ソプラノ歌手/1923.12.2生)
20世紀を代表するソプラノ歌手です。アテネ音楽院でイダルゴに学び、1938年にオペラ・デビューを果たしました。1947年に行われたヴェローナ音楽祭でポンキエッリの《ジョコンダ》で一躍注目をあび、指揮者セラフィンの指導により活動の幅を広げます。1950年にミラノ・スカラ座でデビュー後、ロッシーニやドニゼッティ、ベッリーニなど、それまで上演される機会が少なかったイタリア・オペラを歌い、高い評価を受けました。また、生涯に渡りEMI専属歌手として、80枚にも及ぶ数々の名録音を残しました。“ソプラノ・ドランマーティコ・ダジリタ”と言われる、高い音域で転がすような特別な技法を生かす歌声、役になりきる表現力、多くの人を魅了するカリスマ性からディーヴァ(歌姫)と呼ばれ、世界中から注目を浴び、現在も20世紀最高のディーヴァとして称えられています。
♪ヨハン・ブルクミュラー(ドイツ/作曲家、ピアニスト/1806.12.4生)
ドイツに生まれ、父にデュッセンドルフの初代音楽監督を務めたヨハン・アウグスト・フランツ、弟に作曲家ノルベルト・ブルクミュラーを持ちます。幼少時より父から作曲やピアノ教育を受けたのち、29年にカッセルでシュポーアに作曲を師事、翌年自作のピアノ協奏曲でデビューしました。その後1832年にパリへ渡り(42年に帰化)、サロン音楽家、教育者として活躍することとなります。ピアノ学習者のバイブルとも言える《25の練習曲》並びに《18の練習曲》の作曲者としてあまりにも有名ですが、その他にも《ぺリ》を始めとする少数のバレエ音楽やオペラ音楽も数曲残しています。
♪ジャン・シベリウス(フィンランド/作曲家/1865.12.8生)
フィンランドの国民的作曲家です。5歳のときからピアノに親しみ、作曲にも興味を示しました。本格的にピアノのレッスンを受けるようになってからは、指の練習よりも即興演奏を好んだそうです。ヘルシンキ音楽院では音楽理論、作曲、ヴァイオリンを学び、更には音楽院に着任したばかりのブゾーニからピアノの指導も受けます。有名作である交響詩<フィンランディア>が完成したのは、1899年のことでした。しかし当時フィンランドはロシアの治下にあったため、人々の独立心をあおる恐れがあるという理由で、演奏が中止されたり異なるタイトルでの演奏を強いられたりしました。
♪セザール・フランク(フランス/作曲家、オルガニスト/1822.12.10生)
ベルギー生まれ、フランスで活躍した作曲家、オルガニストです。1834年にベルギーの音楽院を卒業、1837年にパリ音楽院に入学します。その後は生活が安定しない日々を過ごしましたが、1860年、38歳でようやく、サン・クロティド教会の初代オルガニスト、合唱長の地位を獲得し、オルガン即興演奏家としての名声を博しました。1872年にはパリ音楽院の教授となり、後に『フランキスト』と呼ばれるフランス近代のオルガン楽派を形成する多くの弟子を育てました。代表作である《ヴァイオリン・ソナタ》、《交響曲 ニ短調》などは、晩年の作品です。19世紀半ばのフランス音楽界の中では珍しく、ドイツ風の重厚な和声と対位法を用いて独自の作風を完成させ、交響曲や室内楽作品、オルガン曲などに傑作を残しました。
♪コダーイ・ゾルターン(ハンガリー/作曲家、音楽教育家/1882.12.16生)
ハンガリーの作曲家、教育家です。幼い頃より音楽に触れながら育ちます。1891年ローマ・カトリック教会高等学校にて正式に音楽を学び、ピアノのレッスンを受けるかたわら、教会の聖歌隊に入ります。この頃既に、合唱と管弦楽のためのミサ曲や奉献唱等を作曲していました。その後ブダペスト音楽院へ入学し、作曲をハンス・ケッスラーに師事します。1905年からは同門下のバルトークと共にハンガリー民謡の採譜と録音、民俗音楽の研究を始めます。翌年に母校の教授に就任しますが、講義や作曲の合間に、研究も継続して行いました。この研究結果を元に、ハンガリー民謡を基礎とした音楽的語法と、自らの音楽的語法とを融合させた新しい作風を生み出し、民謡編曲のほか無伴奏合唱曲を多数作曲しました。代表曲にはオペラ《ハーリ・ヤーノシュ》や《無伴奏チェロ・ソナタ》があります。晩年にはハンガリーの音楽教育システムを確立。『コダーイ・システム』と呼ばれ世界中に伝わっています。
♪山本直純(日本/作曲家、指揮者/1932.12.16生)
作曲家の父のもと、幼少の頃から音楽教育を受け、東京藝術大学作曲科に入学。後に指揮科に転科し、斎藤秀雄、渡邉暁雄に師事しました。在学中よりラジオ、テレビ、映画等の各分野で才能を発揮します。1972年、小澤征爾と共に新日本フィルハーモニーを設立、指揮者団の幹事となります。同年からテレビ番組『オーケストラがやってきた』の音楽監督とレギュラー出演も務め、大衆に広く知られる存在となります。1974年国連委嘱作品《人》を作曲。1979年には日本人として初めてボストン・ポップス・オーケストラを指揮し、喝采を浴びました。《一年生になったら》《歌えバンバン》をはじめとする数多くの愛唱歌を作曲。NHK大河ドラマや人気映画シリーズ『男はつらいよ』全48作の音楽を担当するなど、幅広い分野で作品を残し、日本音楽アカデミー賞も受賞しました。1983年から98年までは毎年、大阪城ホールでの「一万人の第九コンサート」の音楽監督、指揮者を務めるなど、クラシックの大衆化に力を注ぎました。
♪ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(ドイツ/作曲家/1770.12.16頃)
ハイドンやモーツァルトの後を継いで、古典派から初期のロマン派の時代にかけて活躍した最も重要な作曲家です。幼い頃から才能を発揮し、宮廷歌手であった父には4歳頃から過度な練習を強いられました。父の他に、ベートーヴェンに正しい作曲の指導をした最初の人と言われている宮廷オルガン奏者のネーフェの指導を受け、1777年に鍵盤楽器奏者として公開演奏会を開催、1782年には初めての作品を出版しました。ピアノソナタや交響曲を筆頭に、数多くの作品を残したベートーヴェンですが、オペラは1曲しか作曲しませんでした。26〜27歳頃から耳の病が始まり、次第に聴こえなくなってくる耳の病を悲観し、遺書を残し自殺を考えたそうですが、作曲家としての使命感に目覚め、運命に決然と立ち向かい復活したと言われています。その後作曲されたのが≪交響曲第3番英雄≫であり、≪交響曲第5番運命≫です。ベートーヴェンは後世の作曲家たちの模範であり続け、「ソナタ形式」の理論や「運命動機」を典型とする動機労作など、彼の音楽を元にして抽出されたと言っていい程の理論を確立しました。
♪コジマ・ワーグナー(ドイツ/リストの娘、ワーグナーの妻/1837.12.25生)
1857年に父フランツ・リストの弟子で指揮者のハンス・フォン・ビューロと結婚しましたが、リヒャルト・ワーグナーのもとにはしり、1870年に正式にワーグナーの妻になりました。ワーグナーとの間に3人の子どもを授かります。(長男に作曲家ジークフリートがいます。)最愛の夫が亡くなった後は、夫の立ち上げたバイロイト音楽祭の継続に力を注ぎました。音楽や演出などの芸術面の指導だけではなく、新たな人材を見つける為に各地で行われる上演に訪れました。継続運営の為金策にも走り回り、なんでもこなすマネージャーとして、その才能を存分に発揮しました。音楽祭は、ワーグナーの親族に受け継がれ、現在も毎年夏に開催され世界中のオペラファンで盛大に賑わいます。
♪パブロ・カザルス(スペイン/チェリスト、指揮者、作曲家/1876.12.29生)
11歳ころからチェロを学び、バルセロナ音楽学校を経て、マドリード音楽院(作曲と指揮)を修了しました。86年にはバルセロナの歌劇場にて首席チェロ奏者として、99年にはラムルー管弦楽団と共演したことをきっかけにソリストとして国際的に活躍するようになりますが、1905年に結成したピアノのコルトー、ヴァイオリンのJ.ティボーとの三重奏団でも音楽史において大きな足跡を残しています。彼の技巧的、また合理的な奏法はチェロの独立楽器としての新たな可能性を見出しました。また、JSバッハの無伴奏チェロ組曲を世に再認識させたことも彼の功績のひとつです。
♪ドミトリー・カバレフスキー(ロシア/作曲家、ピアニスト/1904.12.30生)
交響曲から子どもの歌に至るまで、幅広い分野で活躍したロシアの作曲家です。モスクワ音楽院でピアノや作曲を学び、1929年に作曲科を、翌年にピアノ科を卒業しました。交響曲や管弦楽曲を執筆する一方で、子どものためのピアノ曲も数多く手がけ、これらの作品は今なおピアノ学習者に親しまれています。1939年には母校のモスクワ音楽院の教授に着任。その翌年、ピアノ曲でよく知られる組曲≪道化師≫の<ギャロップ>が作曲されました。
1月
♪ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(イタリア/作曲家/1710.1.4生)
イタリア出身の作曲家です。1731年に作曲家デビューし、教会音楽やオラトリオ等を多くの劇場で上演します。代表作の一つである《奥様女中》は、1733年にオペラ・セリア《誇り高い囚人》の幕間に上演されたもので、従来のオペラのような重厚感や固さがなく、聴衆からは大好評を得ました。馴染みやすい登場人物と日常生活を題材にした喜劇的なオペラは後に「オペラ・ブッファ」と呼ばれるようになります。ペルゴレージの死後、パリにて《奥様女中》が再演され大好評を得たことがきっかけとなり、フランス音楽派とイタリア音楽派との間で優劣論争がおこります。この論争は「ブフォン論争」と呼ばれ、現在では音楽史上に残る出来事の一つとされています<。/dd>
♪アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(イタリア/ピアニスト/1920.1.5生)
北イタリアで生まれ、父からピアノとヴァイオリンの手ほどきを受けます。ミラノ音楽院卒業後、1939年第1回ジュネーヴ国際コンクールにて1位を受賞。コンクールの審査員をしていたアルフレッド・コルトーは「新しいリスト」と称賛しました。その後ヨーロッパ各地で行った演奏会が成功を博し、国際的な名声を得ます。その一方で、演奏会の出演キャンセルが多いとの噂どおり、来日した際も多くの演奏会が中止になったこともありました。
♪アレクサンドル・スクリャービン(ロシア/作曲家、ピアニスト/1872.1.6生)
ロシアで生まれ、ピアノ奏者、作曲家として活躍しました。ピアノを11才から、作曲を13才から始めます。16才でモスクワ音楽院に入学し、同級生のラフマニノフとはピアノと作曲の腕を競っていましたが、スクリャービンの方がピアニストとしては有望視されていたといわれています。しかし、在学中に練習のし過ぎで右手を痛め、ピアニストとしての挫折感から作曲に力を注ぐようになりました。またその時に左手の練習に励んだため、それ以降に作曲されたピアノ曲の左手声部が複雑であること、《左手のための2つの小品 Op.9》の作曲に繋がったといわれています。初期にはショパン風なピアノ曲、後に、リストやワーグナーの影響で新しい和音の探求をします。やがて、ニーチェの哲学に触れ、神智学に傾倒し、影響を強く受けた作品を作曲し始め、神秘和音を使った管弦楽曲《法悦の詩 Op.54》が作曲されます。《火の鳥―プロメテ》では、色光オルガンを考案し、音楽と光を結びつけた“ミクスト・メディア”の先駆けとされています。
♪クララ・ハスキル(ルーマニア/ピアニスト/1895.1.7生)
ルーマニアで生まれ、スイスを拠点に活躍したピアニストです。 10歳でパリ音楽院においてコルトーに師事、15歳で演奏活動を開始しますが、度重なる病のため、活動の一時中断を余儀なくされます。1921年に復帰し、さらに1950年頃からは、チェリストのカザルスらとの共演をきっかけに世間から脚光を浴びることとなりました。古典派やロマン派の演奏、中でもモーツァルトのそれに対する評価は高く、音楽家や聴衆から多くの支持を得ていました。彼女の死後、1963年にはスイスにおいてクララ・ハスキル国際ピアノ・コンクールが創設されています。
♪プラシド・ドミンゴ(スペイン/テノール歌手/1941.1.21生)
スペインのテノール歌手です。サルスエラ劇団を経営する両親のもとに生まれ、8歳の時にメキシコへ移住。メキシコ・シティ音楽院でピアノと指揮をマルケヴィチに師事します。一時期はバリトン歌手として舞台に立ち、1960年ごろテノール歌手として《トラヴィアータ》で再デビュー。1962年からの3年間、イスラエル国立歌劇場で300公演以上も出演しました。その後、ニューヨーク・シティ・オペラと契約し、1968年にハンブルク国立劇場、メトロポリタン歌劇場でデビューします。それ以来、ミラノ・スカラ座をはじめ世界各地に招かれ、当代屈指のテノールとして活躍しました。イタリア・オペラを得意としており、リリコからドラマティコにわたる幅広いレパートリーを持ち、ルチアーノ・パヴァロッティ、ホセ・カレーラスとともに「三大テノール」として広く知られています。また、指揮者や歌劇場の芸術監督などにも就任しています。
♪ムツィオ・クレメンティ(イギリス/作曲家、ピアニストなど/1752.1.23生)
イタリアで生まれ、イギリスで活躍した作曲家です。1773年にロンドンでピアノ奏者、作曲家としてデビューすると、マリー・アントワネットの前で演奏をしたり、モーツァルトと競演をするなど、ピアノ奏者として大成功を収めました。また、作曲家やピアノ奏者としての活動のほかに、ピアノ製作者、音楽出版業者、音楽教育家としても活躍しました。特に音楽教育家として、100曲の練習曲からなる《グラドゥス・アド・パルナッスム》を作曲し、その後のピアノ教育に大きく貢献し、新しいピアノ奏法、ピアノ音楽の様式の開拓者として、大きな足跡を残しました。弟子にはピアノ指導者であり、最初にノクターンを書いた作曲家のJ.フィールドがいます。
♪ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(ドイツ/指揮者、作曲家、ピアニスト/1886.1.25生)
ベルリンで生まれ、はじめは作曲を学びますが、1905年からは練習指揮者として経験を積みました。マンハイムの歌劇場時代に注目を浴びるようになり、1922年にはベルリン・フィルハーモニーの指揮者に迎えられます。国外にも活躍の場を広め、ニューヨーク・フィルハーモニーにも客演しました。第二次世界大戦中もドイツで活動を続けますが、ナチスへの協力が疑われ、スイスに亡命。戦後活動を禁止されていましたが、無罪が認められ、活動を再開します。ベルリン・フィルハーモニーの終身指揮者として活躍したほか、ヨーロッパ各地にも客演、演奏旅行を積極的に行いました。20世紀最大の指揮者として、今なお絶大な支持を得ています。
♪アルフレッド・リード(アメリカ/作曲家、指揮者/1921.1.25生)
ニューヨークのマンハッタン生まれ。10歳からトランペット、15歳から作曲を学び、高校卒業後、放送局の作曲・編曲・副指揮者となります。1946年にジュリアード音楽院に入学し、作曲をジャンニーニに師事。1953年、ハンセン出版社に入社したと同時にベイラー大学に派遣され、指導や研究を行います。1966年から1993年まで、マイアミ大学音楽学部の作曲と理論の教授として音楽教育に力を注ぐかたわら、数々の作品を発表しました。200曲以上の吹奏楽作品を残し、中でも《アルメニアン・ダンス》や《ハムレットへの音楽》、全日本吹奏楽コンクールの課題曲となった《音楽祭のプレリュード》などは、吹奏楽の古典的名曲として多くの吹奏楽ファンに愛されています。また、親日家としても知られており、1981年に東京佼成ウィンドオーケストラの招きで初来日して以来、日本で活動することも多く、日本の吹奏楽界にとって無くてはならない存在となりました。
♪ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(オーストリア/作曲家、演奏家/1756.1.27 生)
J.ハイドン、L.v.ベートーヴェンと共に「ウィーン古典派」を代表する作曲家の一人として有名です。オーストリアのザルツブルクに生まれ、幼少の頃から宮廷楽団のヴァイオリン奏者であった父から音楽教育を受けていました。その才能は早くに開花し、5歳で初めての作曲を、7歳で最初の曲集を出版しました。以降、ヨーロッパ各地にて音楽を学ぶ機会に恵まれ、中でも1769年より行われたイタリア演奏旅行では3つのオペラを作曲、上演するという成果を収めています。また、72年より故郷のザルツブルクにおいて宮廷楽師長を務めますが、その職務や大司教に不満を持った彼は77年に辞職し、ザルツブルクを離れました。しかしその後のマンハイムへの演奏旅行が失敗に終わり、不本意ながらも再びザルツブルクで宮廷オルガン奏者として活動することとなってしまいました。翌年は《ドン・ジョヴァンニ》《 アイネ・クライネ・ナハトムジーク》などの傑作を残し、ウィーンの宮廷作曲家の称号を受けていますが、父の死去がきっかけとなり経済難に見舞われるようになります。そして91年には聖シュテファン大聖堂の学長代理に無給で就任、彼の経済環境は変わらないまま同じ年の冬にこの世を去りました。35年という短い生涯ではありますが、彼の作品のジャンルは劇音楽や管弦楽、交響曲、ピアノ曲など多岐に渡り、その多くが「名曲」として音楽史に名を残しています。
♪フランツ・シューベルト(オーストリア/作曲家/1797.1.31生)
「ドイツ・リート」を確立し、「歌曲王」と呼ばれた作曲家です。幼少期に学校長をしていた父と兄から音楽教育を受け、10歳でウィーンの宮廷少年合唱団(現・ウィーン少年合唱団)に入団。翌年から宮廷楽長のサリエリに作曲を学びます。コンヴィクト(寄宿制の学校)在学中に、弦楽四重奏や室内楽など約80曲を作曲しました。卒業後は、シューベルトの才能を認める友人やシューベルティアーデ(シューベルトを囲んで演奏を聴く会)の援助を受け、音楽家としての名声を手に入れます。わずか31歳でこの世を去りましたが、ピアノ曲はもちろん室内楽から管弦楽まで1000曲にも及ぶ作品を残し、中でも歌曲は600曲以上書き上げました。これらの歌曲は「ドイツ・リート」と呼ばれ、歌とピアノ伴奏が一体となり、詩の持つ深い情緒を盛り上げていく特徴があります。代表作である三大歌曲集の《美しい水車小屋の娘》《冬の旅》《白鳥の歌》、学校の教科書にも掲載されている《魔王》《ます》《のばら》は、幅広い世代から親しまれています。
2月
♪フリッツ・クライスラー(オーストリア/ヴァイオリニスト、作曲家/1875.2.2生)
♪ヤッシャ・ハイフェッツ(アメリカ/ヴァイオリニスト/1902.2.2生)
ロシア生まれ、アメリカで活躍したヴァイオリニストです。3歳からヴァイオリニストの父親に手ほどきを受け、8歳でペテルブルク音楽院に入学、10歳の時にペテルブルクでデビューします。ロシアの一流楽団やベルリン・フィルハーモニー楽団と共演して鬼才ぶりを発揮し、その後、ソヴィエト革命の影響で家族と共にニューヨークに移り、アメリカを拠点に広く活躍します。演奏旅行は全世界に及び、日本でも1923年(大正12年)に最初の演奏会を開きました。多くの作曲家から作品の献呈を受けており、彼自身は、ディニクの《ホラ・スタッカート》をはじめ、150曲の作品をヴァイオリン独奏用に編曲しています。映画にも出演するほか、晩年は主に室内楽の演奏に力を入れたといわれています。高度な技巧を基調とした、20世紀前半最高のヴァイオリン奏者の1人です。
♪フェリックス・メンデルスゾーン(ドイツ/作曲家/1809.2.3生)
初期ドイツ・ロマン派を代表する作曲家です。幼少の頃からツェルターなどに作曲を学び、音楽的な天才ぶりを発揮します。1820年から習作として弦楽合奏などの作曲を始める一方、ピアニストとして公開演奏をする機会が多くなります。1825年から本格的に作曲活動を始め、翌年には序曲《真夏の夜の夢》を作曲しました。この曲は16年後に、シェイクスピアの戯曲『夏の夜の夢』の付随音楽として続編が創作され完成に至ったといわれています。作品の特徴として、文豪ゲーテらとの交流があったことなどから、情景描写が鮮明で、メロディーの美しさが際立つ音楽であるといわれています。ピアノ小品集《無言歌》は現在も多くのピアノ学習者に愛され、演奏され続けている作品のひとつです。また、自らが指揮者となることもあり、1829年には存在を忘れられかけていたJ.S.バッハの《マタイ受難曲》を復活演奏し、近代の「バッハ・ルネサンス」の先鞭をつけました。
♪エーリヒ・ラインスドルフ(アメリカ/指揮者/1912.2.4生)
オーストリアで生まれ、ウィーン国立音楽院でピアノとチェロを学びました。はじめはピアニストとして活躍していましたが、1934年から参加したザルツブルク音楽祭においてワルターらの助手を務めたことがきっかけとなり、37年に指揮者としてデビューすることとなります。同年に渡米、翌年にはメトロポリタン歌劇場の副指揮者となり、《ワルキューレ》で成功をおさめました。その後も、アメリカで管弦楽団の指揮者やオペラの音楽監督、メトロポリタンの音楽顧問を経験し、62年にはボストン交響楽団の音楽監督を務めました。フリー転身後は明快な指揮と傑出した記憶力を武器に、欧米各地において活動しました。
♪クラウディオ・アラウ(チリ→アメリカ/ピアニスト/1903.2.6生)
南米チリ出身のピアニストです。幼少期から神童と呼ばれ、7歳の時にはチリ政府からの奨学金を受けてドイツへ留学。ベルリンのシュテルン音楽院でマルティ・クラウゼに学びます。1914年にベルリンでデビューし大成功を収め、以降ニキシュ、メンゲルベルク、フルトヴェングラーなど歴史的指揮者と共演を重ねます。1921年には南米で公演を行い、1923年モントゥー指揮のシカゴ交響楽団と共演しました。1927年ジュネーヴ国際コンクールでグランプリを獲得。第二次世界大戦中は母国に戻り教育活動に力を注ぎ、戦後は国際的な舞台へ復帰し、88歳で世を去るまで演奏活動を続けました。また多くの音源を残しており、ベートーヴェン、シューマンなどドイツ作曲家の作品は高い評価を得ています。
♪フョードル・シャリアピン(ロシア/バス歌手/1873.2.13生)
ロシア出身のバス歌手です。少年時代は一般教育も受けられないほど貧しい生活を送ります。1890年、その美声を認められて地方回りの小歌劇団に入団し、その2年後からドミトリ・ウサトフにつき、初めて音楽教育を受けます。1893年ティフィリスの歌劇場にて《ファウスト》のメフィストフェレス役で絶賛され、これをきっかけにペテルブルク、モスクワなどで代表的なロシア・オペラの主役を次々に演じました。1901年から国外公演を開始しミラノ・スカラ座で成功を収め、1907年メトロポリタン歌劇場、1913年コヴェント・ガーデン歌劇場に迎えられます。並外れて豊かな美声と強烈な表現力と演技力によって「歌う俳優」とも呼ばれ、中でも《ボリス・ゴドゥノフ》は最高の歌唱として知られ、彼の名前とこの作品を切り離して考えることはできないとさえ言われています。1933年には映画「ドン・キホーテ」にも主演しています。20世紀前半を飾る偉大な名歌手のひとりです。
♪ルイジ・ボッケリーニ(イタリア→スペイン/チェリスト、作曲家/1743.2.19生)
イタリアに生まれ、スペインで活躍したチェリスト、作曲家です。13歳でチェリストとしてデビュー。14歳の時にチェロ・コントラバス奏者の父と共にウィーンの宮廷劇場での演奏活動を始めます。その後、カンタータなどの作曲をし、教会と劇場で活躍。1767年の初めには、パリで弦楽四重奏曲集などを出版し、人気を集めます。1769年にスペイン宮廷の演奏家兼作曲家に就任し、1770年には、弦楽四重奏曲とともに彼の室内楽の中心となる弦楽五重奏曲の作曲を始めます。ハイドンと親交があり、共に新しい室内楽様式の成立に大きな役割を果たしました。ボッケリーニは作曲家として、特に室内楽作品を数多く残したことから“室内楽王”でもあると言われています。《弦楽五重奏曲 ホ長調G.275第三楽章》は特に有名で、〈ボッケリーニのメヌエット〉と呼ばれ、広く親しまれています。
♪カール・チェルニー(オーストリア/ピアノ教師、ピアニスト、作曲家/1791.2.21生)
ピアノ教師であった父親に幼い頃からピアノを学び、9歳のときにウィーンでデビューしました。その翌年からはベートーヴェンらに師事し、演奏技術だけでなく作曲の基礎を身に付けました。15歳より30年間ピアノ教師として活動し、リストをはじめとした多くの名ピアニストを輩出しました。彼の名はピアノ学習者向けの練習曲集の作者として有名ですが、残した作品のジャンルは幅広く、ピアノ曲のほかに交響曲、室内楽曲、ピアノ協奏曲、宗教曲、劇音楽など、ほとんどの分野を網羅しています。
♪ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(ドイツ/作曲家/1685.2.23生)
♪ジョアキーノ・ロッシーニ(イタリア/作曲家/1792.2.29生)
イタリア・オペラの代表的な作曲家であり、オペラ・ブッファ作家です。トランペット奏者の父親と、ソプラノ歌手の母親との間に生まれました。幼い頃から音楽的才能を発揮し、正式な音楽教育を受ける前から作曲をしていたと伝えられています。1804年、家族がボローニャに移住してからは様々な楽器を学び、13歳にしてすでに立派なボーイ・ソプラノ歌手として有名だったといわれています。生涯で39作のオペラを作曲しました。1829年の《ウィリアム・テル》を最後に、オペラの作曲をやめ、その後の長い人生では教会音楽、声楽曲や小品だけを残しました。パイジェッロなどのイタリア・オペラを代表する作曲家と、グルックやモーツァルトなどのドイツ系の作曲家の作品の影響を受けながら、オペラの世界に魅力的な旋律と優れた管弦楽法を持ち込み、それを当時最高の歌手たちの技術と見事に結びつけた素晴らしい作曲家といえます。また、若い頃から常に新しい手法を取り入れるなど、時代を先取りした作曲家でもありました。
3月
♪フレデリック・ショパン(ポーランド/作曲家/1810.3.1生)
その作品のほとんどをピアノ曲が占めることから「ピアノの詩人」と呼ばれる、ロマン派を代表する作曲家です。4歳から母親や姉にピアノを習い、即興演奏の才能で注目を集めました。1826年、ワルシャワ音楽院で校長をしていたエルスネルに師事。1829年、ウィーンで活動することを決意しますが、ここでは演奏の機会が得られず翌年パリに向かいます。その途中、故郷ワルシャワが陥落されたことを知り、祖国への思いを込めて書いた曲が《革命のエチュード》です。パリでは貴族のサロンに招かれ、演奏やレッスンを行って名声を得ると同時に、リスト、ドラクロワといった芸術家たちと親しく付き合います。その中で、女流作家ジョルジュ・サンドと出会い、やがてマヨルカ島で同棲をはじめました。サンドと生活を共にすることで創作に集中することができ、《前奏曲集》《バラード第2番》などの大作を完成させたのです。民謡舞踊をモチーフにしたポロネーズやマズルカは、生涯に渡って書き続け、独自の洗練された音楽を作り上げました。
♪グレン・ミラー(アメリカ/ジャズ・トロンボーン奏者 他/1904.3.1生)
アメリカ生まれのジャズ・トロンボーン奏者、編曲家、バンドリーダー。1926年コロラド大学在学中にジャズ・トロンボーンの魅力に惹かれ、ジャズの世界に入ります。大学卒業後、ベン・ポラックに才能を認められ彼の楽団に加わり、ベニー・グッドマンたちと交流を深めました。1928年、ニューヨークでフリーになりミュージカルの伴奏などを経て、編曲家、トロンボーン奏者として活躍。1937年には自身のバンド、グレン・ミラー楽団を結成します。同楽団は、クラリネットがリードするサックス・セクションの甘美な音色と、ノリの良いスイング感で、ビックバンド・ジャズの黄金時代を築きました。《ムーンライト・セレナーデ》《イン・ザ・ムード》のなどの数多くのヒット曲を出し成功を収める中、1942年に突然バンドを解散。空軍バンドの指揮者となり、将兵慰問に向かう途中に行方不明となってしまいます。しかし、バンド・スタイルは残された楽団員たちによって受け継がれ、現在はニュー・グレン・ミラー・オーケストラとして世界各地で活動をしています。
♪パブロ・デ・サラサーテ(スペイン/作曲家、ヴァイオリニスト/1844.3.10生)
19世紀を代表する、スペイン生まれのヴァイオリニストです。12歳でパリ音楽院に入学し、アラールに師事しました。在学中はソルフェージュとヴァイオリン科で1等賞を、和声のクラスで優等賞を受けています。卒業後はソリストとして、ヨーロッパをはじめ南北アメリカ、中近東、南アフリカなど、いたるところで演奏旅行を行い、各地で成功をおさめました。甘美で純粋な音、超人的な技巧が彼の演奏の特徴です。また、ヴァイオリンのための作品も多数残しており、中でも《ツィゴイネルワイゼン》はもっとも有名なヴァイオリン曲として知られています。
♪ニコライ・リムスキー=コルサコフ(ロシア/作曲家/1844.3.18)
♪マックス・レーガー(ドイツ/作曲家/1873.3.19生)
ドイツ後期ロマン派の作曲家です。母親に音楽の手ほどきを受け、1884年からはオルガニストのリントナーに師事。その後、音楽学者のリーマンに才能を見出され、教えを受けるようになります。1900年、オルガン曲《B-A-C-Hの主題による変奏曲とフーガ》で本格的な創作活動を始め、1905年《シンフォニエッタ》で成功を収めます。作風は、機能和声と複雑かつ高度な対位法を使い、重厚さを感じさせるもので、ピアノ曲、オルガン曲、声楽曲、管弦楽曲など、多くの作品を残しました。作曲家としてだけでなく、ヴィスバーデンやライプツィヒで作曲教師、ミュンヘン音楽院やライプツィヒ大学では音楽監督をつとめたほか、オルガニストやピアニスト、指揮者としても活躍しました。
♪アルトゥーロ・トスカニーニ(イタリア/指揮者/1867.3.25生)
イタリアの指揮者です。1876年パルマ王立音楽院に入学、1885年に卒業するまでチェロと作曲を学びました。在学中、チェロ奏者兼第2合唱指揮者として同行した演奏旅行中に、《アイーダ》の公演に急遽指揮者として起用され、全曲暗譜で指揮し驚異的な成功を収めました。同年トリノで指揮者としてデビューし、1898年からミラノ・スカラ座の芸術監督兼首席指揮者を務め、イタリアを代表する存在となります。またアメリカでも、1908年からメトロポリタン・オペラの首席指揮者を務め、確固たる地位を築きました。その後は1954年に公開放送中の指揮途中に意識障害を起こし引退するまで、彼のために創設されたNBC交響楽団の常任指揮者を務めました。明晰な演奏様式を確立し、カラヤンをはじめとする以後の指揮者に強い影響を与え、彼の指揮法は国際的に20世紀の主流となりました。
♪ベラ・バルトーク(ハンガリー/作曲家、ピアニスト、民族音楽研究家/1881.3.25生)
20世紀ハンガリーを代表する作曲家でありピアニストです。音楽好きの両親の影響で5歳からピアノを始め、11歳でピアノ小品を書くようになります。1891年には少年ピアニスト・作曲家として公衆の前に立ちました。1899年ブダペスト音楽院に入学。R.シュトラウスの《ツァラトゥストラはかく語りき》を聴き刺激を受け、作曲家になる決心をしたといわれています。1905年からはコダーイと共同で、様々な地域の民謡を収集し研究を行い、民族音楽研究家としても卓越した業績を残しました。息子たちの教育用に作曲した153曲の小品は、6巻の曲集《ミクロコスモス》として出版され、初歩から演奏会用の小曲までを含む、音楽史上ユニークなエチュードとして、現代のピアノ入門の曲集となりました。
♪ヴィルヘルム・バックハウス(ドイツ/ピアニスト/1884.3.26)
♪ルドルフ・ゼルキン(チェコ/ピアニスト/1903.3.28生)
20世紀の大ピアニストの一人です。ウィーンでリヒャルト・ローベルトにピアノを、ヨーゼフ・マルクスとシェーンベルクに作曲を学びました。1915年ウィーン交響楽団との共演でデビュー。1920年、ヴァイオリニストのアドルフ・ブッシュと意気投合したことからデュオのパートナーに抜擢され、ヨーロッパ各地での演奏旅行に同行。さらに1933年には、ブッシュ四重奏団との共演でアメリカ・デビューを果たします。1936年にはトスカニーニ指揮のニューヨーク・フィルハーモニックとの共演により、アメリカでもその実力を認められます。アメリカへ移住後は、演奏活動の傍らカーティス音楽学校の教授として後進の育成や、マールボロ音楽学校と音楽祭を創設するなど、幅広く活動しました。ゼルキンの演奏は、剛毅さと素朴さを表現したドイツの正統的なスタイルです。レパートリーもほぼドイツ作品に限られ、特にベートーヴェンのダイナミックで力強い演奏が好評を得ています。2003年には生誕100年を迎え、名録音が多く復刻されました。
♪フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(オーストリア/作曲家/1732.3.31生)
18世紀後半の、ウィーン古典派時代の重要な作曲家です。幼いころから音楽に才能を発揮し、6歳から聖シュテファン大聖堂の少年合唱団で活躍しました。変声期を迎えたことで17歳のときに退団、その後は独学で音楽を学び、フリーの音楽家として過ごしていました。やがてその努力が認められ、25歳でボヘミアのモルツィン伯爵家の楽長に、29歳でハンガリーのエステルハージ侯爵家の副楽長に、6年後には楽長に就任します。48歳のころより演奏団体からの作曲依頼も多方面から受けるようになります。同じ年に侯爵家宮廷楽団が一時的に解散したことをきっかけに、イギリスへ2度赴き、同地で行われたザロモン演奏会のために、有名な《驚愕》や《軍隊》を含む12曲の交響曲を作曲しています。帰国後はエステルハージ侯爵家宮廷楽団の再建に取り掛かると共に、オラトリオ《天地創造》《四季》を作曲しました。彼の古典派音楽の完成に対する貢献は大きなもので、77年の生涯にわたり、あらゆる分野の作品を多く残しました。中でも、交響曲と弦楽四重奏曲の作曲数が膨大なため、「交響曲の父」「弦楽四重奏曲の父」とも呼ばれています。
4月
♪セルゲイ・ラフマニノフ(ロシア/作曲家、ピアニスト/1873.4.1生)
19世紀末から20世紀初頭を代表する作曲家、ピアニストです。母からピアノの手ほどきを受け、幼少時代から音楽的な才能を見せます。1882年からペテルブルグ音楽院でピアノを学び、1885年にモスクワ音楽院へ移るとピアノの他に作曲、対位法を学びました。音楽院時代から本格的に作曲活動を始め、卒業後に〈交響曲 第1番〉を作曲、発表します。しかしこれが不評で、作曲活動が手につかないほど精神的ダメージを受けましたが、治療を受けて回復。再び作曲に向かい、代表作品の一つである〈ピアノ協奏曲 第2番〉を書きあげ、自ら初演し大成功を収めます。この作品で作曲家としての地位を得たラフマニノフは、歌劇や交響曲、ピアノ協奏曲、ピアノ曲など次々に傑作を生み出しました。後期ロマン派を残しながらも濃厚なロマンティシズムを表現する優れた作曲技法は高い評価を受け、現在でも多く演奏されています。
♪ヘルベルト・フォン・カラヤン(オーストリア/指揮者/1908.4.5生)
ザルツブルクのモーツァルテウムでピアノを、ウィーン国立音楽大学で指揮を、ウィーン大学で音楽学を学びました。19歳よりウルム市(ドイツ)の歌劇場指揮者を5年間務めたのち、アーヘン(同)の歌劇場オペラ監督、音楽総監督となりました。29歳のときにはウィーン国立歌劇場、翌年にベルリン国立歌劇場に登場しました。第二次世界大戦後、ウィーン楽友協会の終身音楽監督に迎えられ、42歳ではロンドンのフィルハーモニア管弦楽団の常任指揮者に就任しています。1954年に初来日し、NHK交響楽団を指揮しました。その後も数々の管弦楽団や歌劇場で指揮者や監督を務めあげ、さらにはザルツブルク復活音楽祭を創始するなど、精力的に活動していました。彼の明快な演奏の評価は高く、また幅広いレパートリーを武器に、現代を代表する指揮者としてその名を残しました。
♪アンドレ・プレヴィン(アメリカ/指揮者、ピアニスト、作曲家/1929.4.6生)
映画音楽の作編曲や指揮をしたことで有名なアメリカの音楽家です。ベルリン音楽大学とパリ音楽院でピアノを学びます。1939年にナチスに追われてアメリカに移住した後は、作曲をカステルヌーヴォ=テデスコとトッホに学びます。1945年から映画音楽の編曲者として活躍、多くの映画音楽の作曲と指揮を行います。映画「恋の手ほどき」「ポギーとべス」でアカデミー・ミュージカル音楽映画賞、「あなただけ今晩は」「マイ・フェア・レディ」でアカデミー・編曲賞を得ました。1951年にモントゥーから指揮法を学び、1959年からクラシック音楽の指揮をするようになり、1963年セント・ルイス交響楽団を指揮して正式にデビューします。その後は、様々な交響楽団で首席指揮者、音楽監督をつとめました。新鮮で躍動感あふれる明快さが特徴的な指揮者です。またジャズ・ピアニストとしての活動でも人気を得ました。
♪ジュゼッペ・タルティーニ(イタリア/作曲家、ヴァイオリニスト/1692.4.8生)
ソナタやコンチェルトの発展にも貢献した作曲家ですが、“技巧的なヴァイオリニスト”としても名声を博しました。パドヴァ大学で法律を学ぶかたわら、ヴァイオリンの技を磨き続け、1721年、聖アントニオ大聖堂に首席ヴァイオリニスト兼楽師長として就任します。1728年にパドヴァに音楽学校を創設し、自らヴァイオリンと作曲を教え、優れた弟子を育てました。またこの時期に本格的な作曲活動に入り、室内ソナタ、協奏曲、シンフォニアなど、約350曲もの作品を生み出しました。最も有名な〈ヴァイオリン・ソナタ ト短調〉は、彼の夢の中で悪魔が弾いていた曲を必死に書きとめ作られたという伝説から〈悪魔のトリル〉と呼ばれ、難曲ですが、ヴァイオリニストの必須のレパートリーと言われています。理論家としてもバロック音楽の発展に大きく貢献し、差音現象の最初の発見者でもあるともいわれています。
♪モンセラート・カバリエ(スペイン/ソプラノ歌手/1933.4.12生)
“世界一美しい”とも言われる高音のピアニッシモが特長のソプラノ歌手です。1956年スイスのバーゼル歌劇場でオペラ・デビューを果たします。デビュー後はブレーメン歌劇場、ウィーン国立歌劇場など多くの歌劇場に出演しましたが、1965年カーネギー・ホールで《ルクレツィア・ボルジア》の主役を代演で歌い、一躍注目を浴びました。レパートリーは幅広いですが、中でもロッシーニやドニゼッティ、ベッリーニなどのベルカント・オペラを得意とします。他にも、R.シュトラウスの《サロメ》から、グノーなどのフランス・オペラに至るまで多くの役柄を演じています。きめ細かい美しさに高度な歌唱力と豊かな声質を生かした歌唱は、今でも高い評価を得ています。
♪セルゲイ・プロコフィエフ(ロシア/作曲家、ピアニスト、指揮者/1891.4.23生)
♪ジョン・ウィリアムズ(イギリス/クラシック・ギタリスト/1941.4.24生)
オーストラリアに生まれ、10歳ごろ一家でイギリスに移住しています。ジャズ・ギタリストであった父からの手ほどきでギターを始めました。その後は英国王立音楽大学でピアノと音楽理論を学びながら、キジアーナ音楽院での夏期講習にてセゴビアに師事しました。デビュー・リサイタルは17歳のときで、「音楽の世界にギターの貴公子が降り立った」との評価を得ました。卒業後、母校である英国王立音楽大学に新しく設立されたギター部門を教授として任されることとなります。また、32歳からはマンチェスターの王立北音楽大学の客員教授を務めています。その完璧なテクニックと、明晰な音楽性に支えられた演奏は世界的に支持されています。
♪デューク・エリントン(アメリカ/ジャズ作曲家、ピアニスト、バンド・リーダー/1899.4.29生)
♪ズービン・メータ(インド/指揮者/1936.4.29生)
ロマンティックで明快な表現を得意とする、実力と人気を兼ね備えた指揮者です。ボンベイ交響楽団の創立者であり指揮者として有名な父親のもとヴァイオリンを学び、初めは医師を志していましたが、1954年にウィーン国立音楽院に入学。スワロフスキーに師事し指揮を学びました。1958年にリヴァプールで行われた国際指揮者コンクールで優勝し注目を集め、ウィーン・フィルハーモニーでデビューを果たしました。そこから活躍の場を世界に広げ、カナダ、アメリカ、イスラエルなど様々な国の楽団で常任指揮者、音楽監督を務め多くの功績を残しています。幅広いレパートリーをもっていますが、オペラにも意欲的で、1965年にメトロポリタン歌劇場でデビュー。世界各地で野外オペラなどの公演を成功させています。1969年に初来日。2011年の震災直後は、その影響で外国人指揮者の演奏会が相次いでキャンセルとなる中、来日しチャリティーコンサートを行い渾身の演奏を披露しました。
♪フランツ・レハール(オーストリア/作曲家/1870.4.30生)
ハンガリーで生まれたオーストリアの作曲家です。12歳でプラハ音楽院に入学。ヴァイオリンを学ぶと共に、ドヴォルジャークに作曲法を師事します。ワルツの名曲《金と銀》ほか行進曲などの作曲で名をあげ、オペレッタ《メリー・ウィドウ》の作曲で世界的に有名になりました。ワルツのリズムに乗せた流麗な旋律が最も大きな特徴ですが、ほかにも当時流行のダンスのリズムを機敏に取り入れたり、和声の技巧にも優れており、オペレッタの内容の充実、活性化を促したといわれています。20世紀のオペレッタに新しい時代感覚を取り入れ、オペレッタの作曲家として大きな業績を残した作曲家です。

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