編集部チョイス「おすすめの1曲」

レベル:

掲載楽譜 →

  • ぴあのどりーむ

  • おんがくドリル

  • ピアノの森

  • 丸子あかね先生の導入教材シリーズ

  • ピアノのほん

  • iPhone・iPad対応 どれみふぁむらのたんけんたい

  • ピティナ・ピアノステップ課題曲掲載楽譜

  • 運命と呼ばないで

Facebookに遊びに来てください!

松井美香先生の勇気づけのピアノレッスン座談会はこちら

Happy Lesson 特設ページ特設ページはこちら

・ココファングループ採用サイト


  • JASRAC許諾番号:S0904012063
  • 6月6日は楽器の日
  • 楽譜のコピーはやめましょう

おんがく通信TOP

今日は何の日?

10月

1905年10月15日 ドビュッシー作曲「海ー管弦楽のための3つの交響的素描」初演

印象主義音楽の代表作ともいえる管弦楽曲《海―管弦楽のための3つの交響的素描》は、フランスの作曲家クロード・ドビュッシー(1862-1918)の作品です。「作曲家にならなかったら船乗りになっていた」というほど、海への思い入れが強く、独特な色彩感覚で海の様子が描かれています。3つの楽章からなり、第1楽章「海の夜明けから真昼まで」、第2楽章「波の戯れ」、第3楽章「風と海の対話」という副題が付けられています。この曲は、1903年の夏、当時の妻リリの実家(ブルゴーニュ地方)で書きはじめました。ブルゴーニュ地方は陸に囲まれているため海がなく、ドビュッシーの記憶をもとに書き進められたそうです。1904年にリリを捨て、著名な銀行家夫人のエマ・バルダックとジャージー島へ駆けおちをします。その後1905年3月5日、ドーヴァー海峡の海辺に面したイースト・ボーンで完成させました。
初演は、1905年10月15日にカミーユ・シュヴィヤール指揮、ラムルー管弦楽団の演奏によって行われました。エマとのスキャンダルがあったため、オーケストラ団員は作品と向き合おうとせず、演奏の出来はイマイチ。聴衆や批評家の反応も賛否両論だったそうです。3年後の、ドビュッシー指揮、コロンヌ管弦楽団による再演では、作品の価値が認められ、印象主義音楽、そして20世紀の音楽を代表する作品となりました。余談ですが、ドビュッシーが生粋の日本オタクだったことは有名です。《海》の初版のスコアには、葛飾北斎「富嶽三十六景」の『神奈川沖浪裏』を装丁に使うことを希望し、模写が採用されました。《海》のあと、1907年に作曲された《金色の魚》は漆芸品から着想を得て書きあげたりと、日本で生まれた作品に多大な影響を受けました。(の)

バックナンバー

2015    1月   2月   3月   4月   5月   6月   7月   8月   9月  

2014    1月   2月   3月   4月   5月   6月   7月   8月   9月   10月   11月   12月  

2013    1月   2月   3月   4月   5月   6月   7月   8月   9月   10月   11月   12月  

2012    1月   2月   3月   4月   5月   6月   7月   8月   9月   10月   11月   12月  

2011    5月   6月   7月   8月   9月   10月   11月   12月  

9月

1841年9月8日 チェコの作曲家ドヴォルザーク誕生
Antonín Leopold Dvořák(1841~1904)

番外編

プロフィール

ボヘミア(現在のチェコ)で生まれ、16歳でプラハのオルガン学校に入学。苦学しながら音楽家をめざした。カルテットのヴィオラ奏者や、プラハ国民歌劇場のヴァイオリン奏者を務め、スメタナの影響を受けつつ作曲活動を開始。ブラームスの知遇を得たことで作品が世に出る。40~50代のイギリス訪問と、当時“新世界”などと呼ばれていたアメリカに滞在したことによって創作力が爆発。新境地を切り開き、交響曲やオペラ、室内楽などの分野で世界的な名声を得た。その後帰国し、プラハ音楽院教授・院長として後進の育成に尽力したが、62歳で急死。

代表作

  • 交響曲第9番 ホ短調 op.95 ≪新世界より≫ (1894作曲)
  • 弦楽四重奏曲 第12番 ヘ長調 op.96 (1893作曲)
  • 8つのユモレスク op.101 (1894作曲)
  • チェロ協奏曲 ロ短調 op.104 (1894~95作曲)

【キーワード①】ブラームス(8歳年上の先輩作曲家)

1875年から給付されたオーストリア政府の奨学金の審査員を務めたブラームスは、当時無名の作曲家であったドヴォルザークの作品に感動し、ベルリンの出版社を紹介するなど積極的に援助をした。それからというもの、ブラームスとドヴォルザークは生涯にわたって友情を築きあげた。(知名度が上がったかわりに、ブラームスの影響下から抜け出せないという苦しみもあったのだとか…。)

【キーワード②】鉄道オタク

趣味は、蒸気機関車。眺めるのも好き、模型を作るのも好き。プラハに住んでいた頃は、作曲に疲れると(飽きると?)駅に出かけ、機関車を眺め気分転換をしていたそう。代表作である「8つのユモレスクop.101」の構想は、機関車に揺られている時に思いついたといわれている。

5月

5月7日は交響曲第9番が初演された日!!
Ludwig van Beethoven (1770−1827)

1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場で、ベートーヴェンの交響曲、第9番が初演されました。

★それから約1世紀を経た1918年(大正7年)6月1日、日本で第九が初演されます。場所は徳島県鳴門市。第一次世界大戦のさなか、鳴門市の大麻町には板東俘虜収容所があり、千人のドイツ兵が収容されていました。ここ板東収容所は、所長の松江豊寿中佐(1917年から大佐)の指揮のもと、捕虜に対して公正で友好的な対応をしたことで知られています。捕虜たちには自主活動が許され、地元の住民たちとの交流の中で、音楽をはじめとするドイツ文化の紹介も盛んに行われていたそうです。そうした中、捕虜たちで構成された徳島オーケストラの第2回演奏会で第九の全楽章が演奏されました。指揮は、軍楽隊長のヘルマン・リヒャルト・ハンゼン。ただ、場所が収容所内だったため、日本人の聴衆は収容所の関係者だけ。また楽器が足りずオルガンを代用したり、合唱は男声用に編曲されていたため、これを初演とするかどうかは意見が分かれるところらしいですが…

★このエピソードに基づいた映画「バルトの楽園」 (2006年公開/松平健、ブルーノ・ガンツ出演)をDVDで観ることができます。 男声用に編曲された合唱も聴けます

★日本の公式初演は、1924年11月。東京音楽学校(現東京藝術大学)がドイツ人教授、グスタフ・クローンの指揮によって演奏したものだとされています。(く)

4月

4月13日は【メサイア」が初演された日!!
Georg Friedrich Händel (1685−1759)!

数年前にアイルランドに旅行しました。
ヨーロッパの西の果てにある辺境の島国です。丸山薫(1899~1974)という詩人に「汽車にのって」という詩があって、「汽車に乗って/あいるらんどのやうな田舎へ行かう/ひとびとが祭りの日傘をくるくるまはし/日が照りながら雨のふる/あいるらんどのやうな田舎へ行かう」とうたわれているケルト民族の国です。首都はダブリン。ギネスビールや20世紀を代表する文豪ジェイムズ・ジョイスで有名です。首都とは言いながら、高層建築物などはない、大西洋からの偏西風が吹きぬけていく広い大空の下に、私たちが今の時代ともすれば忘れてしまいがちな“人間的な暮らし”が営まれているような街でした。

ダブリンでは、宿はそれほど値の張らない三ツ星クラスだったのですが、その屋号が「ジョージ フレデリック ハンデル ホテル」という名前だったのです。場所はパブなどが集中している飲食店街であるテンプルバーのはずれ、フィッシャンブル街です。
狭いフロントの奥の壁に屋号の由来の説明書きが掛けられていました。そこには、1742年の4月13日にこの場所でヘンデルのオラトリオ「メサイア」が初演されたと書かれていました。
ドイツのハレ出身のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは英国に帰化し、名前も英語読みになって、いまやダブリンのホテルの屋号にもなっているのです。当時のアイルランドは英国の事実上の植民地で、支配階級は宗主国のイングランドからやってきていました。おそらく「メサイア」の聴衆の多くはイングランド出身の「アングロ・アイリッシュ」と呼ばれる人々だったと思います。600人収容できるホールに700人ほどの聴衆が詰めかけたそうです。ロンドンでのオペラ興業がうまくいかずに大きな負債をおっていたヘンデルにとって、この「メサイア」の成功は失地回復の契機となったようです。

「メサイア」とは救世主を意味するメシアの英語読みで、内容は英訳の新・旧約聖書の文言をそのままパッチワークのように構成して、間接的にイエス・キリストの生涯を想起させるものです。なんといっても合唱曲「ハレルヤ」が有名ですが、全編佳曲の宝庫です。
わが国ではクリスマスのシーズンによく演奏されるのですが、4月に初演されたことからもわかるように、もともとは復活祭(あるいは受難節)の時期に演奏されることが多かったようです。「メサイア」がダブリンで初演された詳しい事情や経緯はさておき、私のなかでは「メサイア」という大曲と古都ダブリンの街並みがなぜか分かち難く結びついているのです。(え)

3月

生誕300年3月8日はC.P.E.バッハ(1714-1788)のお誕生日!!

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、今年2014年に生誕300年をむかえました。ピアノ学習者のみなさまにとっておなじみのエマヌエルの作品は、コンクールの課題曲などにもよく選ばれる《アンナ・マグダレーナの音楽帳》の中の〈マーチ ニ長調 BWV Anh.122〉ではないでしょうか。

エマヌエルは、父J.S.バッハ、母マリア・バルバラ(J.S.バッハの最初の妻)の第2子で、父と同じく作曲家です。活動した地域によって「ベルリンのバッハ」「ハンブルクのバッハ」と呼ばれています。バッハ家の子どもたちの中ではもっとも多くの作品を残し、生前のその実績は父J.S.バッハを上回るほどで、エマヌエルが「大バッハ」と称賛されていました。音楽史上ではバロックと古典の二つの時代で活躍した音楽家として重要な存在です。

ベルリンでは、プロイセン皇太子であったフリードリヒ(後のフリードリヒ2世)の宮廷チェンバロ奏者として仕えました。フリードリヒの音楽趣味はたいへん保守的なもので、彼のフルート教師であるヨハン・ヨヒアム・クヴァンツ(1697-1773)が作曲した300のコンチェルトのみを、順繰りに演奏していたそうです。その趣味とは正反対に、エマヌエルは常に新たな可能性を追求し続けていました。ベルリン時代には『クラヴィア演奏の正しい技法についての試論』を出版し、チェンバロ奏者としての名声を確立します。エマヌエルのチェンバロの演奏については、フリードリヒも賞賛を惜しまなかったそうです。しかしフルート演奏を趣味としたフリードリヒの宮廷ではエマヌエルの作品はほとんど演奏されることはなく、フルート演奏の伴奏者として務めました。

やがて1767年、30年仕えたベルリン宮廷を離れ、ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)が楽長をしていた楽団の後任として、ハンブルクのヨハネウム・ハントなど主要な5つの教会の音楽監督に就任します。ハンブルクでは、ライプツィヒ時代の父のように職務の一環として教会や街の様々な行事に音楽を提供し、さらに自ら定期的な公開演奏会を企画・開催したり、自身の作品の出版も行いました。

エマヌエルは、兄弟の誰よりも父親を尊敬し、バッハ家の音楽的・宗教的伝統への忠誠を自覚し続けていたようです。ちなみにエマヌエルの名付け親は、父の友人でもあったテレマンだそうです。エマヌエルの名前にある「フィリップ」は、テレマンの名前にちなんだものです。ベルリンを離れ(フリードリヒの趣味に嫌気がさしたという記録もあります)、ハンブルクへ移ったのも、テレマンへの恩に報いるためだったのかもしれません。(の)

おすすめCDを1枚→
C.P.E.バッハ フルート・ソナタ集 〜クヴァンツ・フルートによる〜
[浜松市楽器博物館/LMCD-1976]
演奏:有田正弘(フルート)、有田千代子(チェンバロ)

2月

2月9日はアルバン・ベルク(1885-1935)のお誕生日!!

音楽史上に“新ウィーン楽派”という呼称があります。師匠格のアルノルト・シェーンベルクにアントン・ウェーベルンとアルバン・ベルクの3人のことをいいます。3人ともウィーンに生まれ、20世紀初頭から前半にかけて活躍しました。もちろん、18世紀末から19世紀初頭にかけての“ウィーン古典派”、すなわちハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの偉大な3人を念頭においての呼称ですが、人々からの親しまれ方ということでくらべるなら、両者には雲泥の開きがあります。

“新ウィーン楽派”の音楽をひと言で言うと、無調から十二音技法の音楽ということになります。音楽史の教科書の記述だけでさえうんざりという方も多いかもしれませんね。しかしながら、音楽史的な評価も定まり、それほど多くはないにしても演奏会のレパートリーとして定着もしました。録音も多数あります。好き嫌いはともかくとして、先入観や予断なしで耳を傾ける機会があってもいいかと思います。それには、3人の中で体質的にもっとも後期ロマン派的な要素が濃厚なアルバン・ベルクの音楽が最適かもしれません。

ベルクが生まれたのは1885年2月9日です。裕福な家庭ではありましたが、早くに父親を亡くすなど、さほど恵まれた生涯を送ったわけではありません。“新ウィーン楽派”では最若年の50歳で死去しています。遺された作品は、長命ではないことを考慮するにしても、あまりにも少ない。亡くなった吉田秀和さんが、かつてラジオ番組「名曲のたのしみ」で紹介した逸話ですが、あんまり数が少ないので作品番号を付けるのを途中でやめたという話もあるそうです(*)。作品番号がついた最後は歌劇「ヴォツェック」(作品7)のようです。結局、未完の歌劇「ルル」を入れても、作品1の名曲ピアノ・ソナタから数えて全部で20作品に満たないのです。

もちろん作品の少なさは才能の多寡と無関係です。ベルクが遺した作品はどれもがながく演奏され、聴きこまれる価値があります。その価値がピンと来ないのであれば、くりかえし幾度も聴いてみるより他に方法はないでしょう。たとえばCDなどについている解説を読んだところで、おそらくは余計にわからなくなるのがオチです。しかし、いったん理解の糸口を捉まえたなら、すでにベルクの音楽の魔性にがんじがらめとなっている可能性が強いと思います。

世界的ピアニストである内田光子さんが、ソリストとしてベルクの室内協奏曲を録音したおりのインタビューで、興味深いことを語っています。「シューマンとベルクは、本当のロマン派です。理屈、そして屁理屈をこねながら、それでも結局、最終的には、情に流されてしまう、それが本当のロマン派だと私は思うんです」(**)シューマンの音楽のように、熱烈な愛好家をもつベルクの音楽のひみつを垣間みせる、演奏家ならではの意見のように思います。(え)

* 「名曲のたのしみ、吉田秀和」第5巻(学研パブリッシング

1月

1月1日は弦楽四重奏「アメリカ」の初演 アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)

1月1日は弦楽四重奏「アメリカ」の初演 アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904))

1892年9月、ドヴォルザークはナショナル音楽院の院長に赴任するためニューヨークに渡ります。1890年にプラハ音楽院の教授に就任し、さらに同校から名誉博士号を、またイギリスのケンブリッジ大学から博士号を授与されるなど、ヨーロッパで名声を確立していたドヴォルザークが、こうして故郷を離れ新天地に赴いた背景には、アメリカの富豪夫人、ジャネット・サーバーの熱い思いがありました。

南北戦争(1861年−65年)後の経済発展によって、19世紀末のアメリカはイギリスをしのぐ世界一の工業国に成長していました。そこには石油のロックフェラー、鉄道のスタンフォード、鉄鋼のカーネギー、金融のモルガンら、巨大財閥が存在していました。彼らはアメリカの経済を支配しながら、一方では歴史をもつヨーロッパの文化や芸術を意識し、そこへの投資も惜しみませんでした。メトロポリタン歌劇場が開場したのもこの頃です(1883年)。そうした中で、サーバー夫人も「アメリカ固有の音楽の創作、音楽家の育成」という夢を実現するための学校、ナショナル音楽院を1885年に設立します。そして、その院長として、ドヴォルザークに白羽の矢を立てたのです。1891年、夫人はドヴォルザークに次のような手紙を送ります。  「どうぞナショナル音楽院の教授に就任してください。給料は年15,000ドルです。また貴方の作品を披露する演奏会を最低10回は開くことをお約束します」。教授に就任したばかりのプラハ音楽院のこともあり、返事を渋っていたドヴォルザークでしたが、その後も彼女の熱心な説得にあい2年間の契約で渡米を決意したのです。

アメリカ滞在中にドヴォルザークは、黒人霊歌やアメリカ先住民の歌などに触れ、大いなる刺激を受けます。そしてまず生まれたのが「交響曲第9番〈新世界より〉」です。1893年の初演は大成功を収めました。その後彼は、夏休みを利用してチェコからの移民のコミュニティがあるアイオワ州スピルヴィルに滞在します。同郷の人々に会い、祖国の文化や音楽に触れた彼は、スピルヴィル滞在中に一気に弦楽四重奏曲「アメリカ」を書き上げました。1893年6月のことです。ペンタトニックを使った第1楽章から始まり、黒人霊歌やボヘミア民謡が郷愁を誘う第2楽章、第3楽章にはスピルヴィルで聞いた鳥のさえずりも描かれているこの曲は、「民族的な要素が弦楽四重奏曲に見事に昇華された名作」といわれています。

1895年2月ドヴォルザークは、晩年の名作のひとつ「チェロ協奏曲」を仕上げ、翌々月の4月に故郷に向けてアメリカを発ったのでした。(く)

●おすすめCDを1枚⇒演奏:アルバン・ベルク四重奏団[EMIクラシックス/TOCE14084] 

12月

12月はJ. S.バッハ(1685-1750)の「クリスマス・オラトリオ」!!

12月ですね。12月といえばクリスマスです。日暮れた街中ではあちこちでクリスマス用のイルミネーションが目につくようになります。歳末のせわしない気分を美しい色とりどりの電飾の灯りが夢みがちに誘ってくれる季節です。 現代ではクリスマスはキリスト教という宗教の枠をこえて多くの国で年中行事となっていますが、本来はキリスト教における大切な宗教上の行事です。その本来の宗教上の役割をになったクリスマス用の西洋音楽は枚挙にいとまないほどにありますが、その代表的なものといえば、やはりJ. S.バッハの「クリスマス・オラトリオ」をあげなくてはならないでしょう。バッハの4大宗教音楽のひとつに数えられている大曲です。

曲は全体で6部からできています。その各部とも独唱・合唱・管弦楽による10曲ほどで構成され、6部全体でキリストの生誕をめぐる一貫した流れをつくっています。演奏時間の合計は2時間半をこえるでしょうか。ただし、1部から6部までを1日で上演するために作曲されたわけではありません。クリスマスという行事は12月25日から翌年の1月6日までの期間のことであり、「クリスマス・オラトリオ」では12月25日に演奏される第1部から1月6日に演奏されるための第6部まで、演奏される日が決まっているのです。クリスマス第1日(25日)に第1部、以下26日=第2部、27日=第3部、1月1日(イエス命名の祝日)=第4部、2日〜5日の日曜日=第5部、6日=第6部です。

では、クリスマスは12月25日に突如として始まるのかというと、当然そんなことはないのです。日本でも最近はずいぶんと早くクリスマス気分が商店街などにあふれるようになりましたが、12月25日にさきだつ4週間を待降節(ドイツ語でアドヴェント)といい、クリスマスを迎えるさまざまな準備にいそしむ期間なのです。モミの木の輪をアドヴェント・クランツ(待降節の冠)といいますが、最近は日本の家庭でも飾られているのをたまに見かけます。この待降節は心身をきよらかにし、心しずかに過ごす期間といいます。そして聖夜(クリスマス・イブ)を迎え、待望のクリスマス(降誕節)となります。アドヴェント(待降節)の清浄で落ちついた4週間の日々があってこそ、「クリスマス・オラトリオ」第1部第1曲冒頭のトランペットとティンパニの華やかな響きとつづく喜びに満ち溢れた合唱が、心の隅々にまでしみいるようにかんじられるのだと思います。(え)

11月

11月22日はブリテン(1913-1976)のお誕生日!!

●2013年は、二人の巨匠、リヒャルト・ワーグナーとジュゼッペ・ヴェルディの生誕200周年ということで、あちらこちらさまざまな形で盛りあがりをみせています。この「おんがく通信」でも二人の記事を取り上げましたし、ワーグナー好きの私も、書店でワーグナーに関する新刊を購入したり、音楽会に出かけたり、その恩恵にあずかっています。

●そのような中、今年記念イヤーを迎えたもう一人の作曲家について今回は取りあげたいと思います。11月22日に生誕100周年を迎えるベンジャミン・ブリテンです。そう、あの「青少年のための管弦楽入門」でよく知られるイギリスの作曲家です。この曲の他にもオペラ「ピーター・グライムズ」や「戦争レクイエム」など、名曲の数々を残したブリテンですが、意外にも日本との関係が深いことをご存知でしたか?

●話は1940年に遡ります。この年日本は、皇紀2600年(神武天皇の即位から2600年)ということでさまざまな記念行事が予定されていました。政府は「皇紀2600年奉祝曲」、つまり祝典のための楽曲を、外国の作曲家5人に委嘱します。ドイツのリヒャルト・シュトラウス(日本建国2600年祝典曲作品84)、フランスのイベール(祝典序曲)とともに、イギリスのブリテンもこの話を引き受け、「シンフォニア・ダ・レクイエム」を作曲しました。ところが、作品が届くのが遅かったのに加え、その内容がキリスト教的で、祝典にふさわしくないという議論がわき起こり、11月10日に行われた式典での演奏はかないませんでした。日本での初演は、1956年2月、ブリテン自らが来日し、NHK交響楽団を指揮して果たされます。

●さて、ブリテンと日本との関係はこれだけにとどまりません。この来日の期間、ブリテンは能楽「隅田川」を鑑賞、それも2度もです。また、2週間かけて笙を習ったといいますから、いかに能楽に惹かれたのかが伺えます。イギリスに帰ったブリテンは、「隅田川」の印象を元に、地元の教会で上演するためのオペラ「カーリュー・リバー」を作曲します(1964年)。舞台は架空の川、カーリュー川。カーリューはシギという鳥の名前で、「隅田川」の謡に登場する「都鳥」を意識したものです。我が子を探す狂女と渡し守を中心とした筋書きも能と類似。演者は能と同じく男性のみ。伴奏に指揮者はいなく、能の囃子のように音楽を誘導する楽器がその都度指定されています。オルガンとハープは、笙と琴をイメージしているのだそうです。なぜここまでブリテンは「隅田川」にこだわったのか…。ブリテン自身が「隅田川を観て、感動的なストーリー、無駄なものがそぎ落とされた様式、緊張度の高い演技、語りと謡の絶妙な組合せ、美しい舞台と衣装に感動した。ヨーロッパの国々の歌手や俳優も学ぶべきものだ」と語っています。日本の能からヨーロッパのオペラの原点に立ちかえったということでしょうか。

●上演時間は約75分。ブリテン自身が音楽監督をつとめた「カーリュー・リバー」のCDが販売されています(残念ながら映像はなし)。ご興味を持たれた方はぜひ一度お聴きになってみてください。[ユニバーサルミュージック/UCCD3650/1965年](く)

10月

10月8日は武満徹(1930-1966)のお誕生日!!

武満徹は戦後の日本が生んだもっとも重要な作曲家であり、20世紀の音楽史上でもぜったいに欠かすことのできない作曲家のひとりです。

武満が世界的な名声を確立したのは、ニューヨークフィル創立125周年記念(1967年)に作曲を委嘱された〈ノヴェンバー・ステップス〉によってです。現在でも武満の代表作といえば、この琵琶と尺八を独奏楽器とした管弦楽曲が真っ先に挙げられます。
武満の年譜を見ると、〈ノヴェンバー・ステップス〉の数年前から、主に映画音楽などの分野で琵琶や尺八などの邦楽器の使用が目につくようになります。ちょうどその時期(1964年)、東西文化センターの招聘で訪れたハワイで、ワイキキの沖合いを泳ぐ座頭鯨を見た感動を回想した文章があります。その結びは「鯨のような肉体をもちたい。そして海を泳ぐ。西も東も無い、海を泳ぐ。」となっています。もちろん「西も東も無い」という表現には、西洋と東洋(日本)が含意されているでしょう。
武満という作曲家は、西洋とはまったく異なる文化的伝統をもつ日本人が西洋音楽に携わることについて、きわめて自覚的であったように思います。さらに、そこに息苦しいほどの難問を見据えていたようにも思われます。小林秀雄の「凡才が容易と見る処に、何故、天才は難問を見るという事が屢々起るのか」(『モオツァルト』)という言葉が思い起こされます。 〈ノヴェンバー・ステップス〉はこの難問への渾身の解答と捉えることもできるのではないでしょうか。もちろん、「西と東」という問題は、楽曲に邦楽器を使うかどうかという単純なレベルの話ではありません。武満は明確に「西も東も無い」と書いているのです。

〈ノヴェンバー・ステップス〉以降も武満は数々の傑作を送り出し、その世界的評価を確固たるものとします。そのほとんどは西洋の楽器をつかった、西洋音楽の延長に位置する音楽です。しかしながら、たとえば後期のオーケストラ曲、作曲家が「日本の回遊式庭園から想を得た」と述べる作品などに耳を傾けていると、その生成しては衰亡していく旋律や濃やかで繊細きわまる独自の響きは、まさしく「西も東もない海」の表情にほかならないと感じられるのです。
最晩年(1996年)、その惜しまれた死のひと月ほど前に発表された「海へ!」と題するごく短い文章の最後にも、この不世出の作曲家の生涯を貫く主題がまた繰り返されるのです。「できれば、鯨のような優雅で頑健な肉体をもち、西も東もない海を泳ぎたい」と。
このように一貫する生涯のあり方に、わたしは胸を熱くするような感動をおぼえるのです。(え)

9月

9月25日はショスタコーヴィチ(1906-1975)のお誕生日!!

20世紀が遠ざかりつつあります。
20世紀といえば2度の世界大戦と東西対立による冷戦構造に特徴づけられる時代といってもいいでしょう。東西対立の一方の雄であった国家は、現在では解体されたソビエト連邦です。いうまでもなく第1次世界大戦のさなか1917年にロシア革命によって史上初めて誕生した社会主義国家でした。ショスタコーヴィチこそ、そのソ連を代表する作曲家として一番に挙げられるべき存在です。不幸なことにといっていいのか分かりませんが、ショスタコーヴィチはソ連の国家体制なかんずく独裁者スターリンとの確執ともいえる関係を抜きにして語られることがほとんどありません。

ショスタコーヴィチの死後、アメリカに亡命したソロモン・ヴォルコフという音楽学者が『ショスタコーヴィチの証言』という本を公刊します。それまで一般的には、どちらかというとソ連体制内の代表的作曲家であると見られていたショスタコーヴィチの、隠された反スターリン的な意図が明らかにされた内容であり、世界に大きな衝撃を与えたといえます。当然ソ連側からの反論もあり、内容の信憑性についての論争が持ちあがりました。この論争についてはいまだ最終的な決着をみていないそうですが、この書物の出現はショスタコーヴィチの音楽の解釈を一変させたといっても過言ではありません。いまではヴォルコフの著書をどう見るかはともかく、ショスタコーヴィチの音楽が単にソ連の政治体制にそった、いわゆる社会主義リアリズムを具現化したものと、単純に考える人はほとんどいないでしょう。20世紀が遠景となりつつあるいまこそ、音楽外の周辺情報などの先入主を排して、まずはショスタコーヴィチの音楽そのものと直に向きあう時期にきているように思います。

蛇足になりますが、そもそもの最初から驚くほどに音楽だけを聴くことができた人もいるのです。ヴォルコフの『証言』が刊行される数年前、1973年に来日したムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルの演奏会評で、有名な交響曲第5番を聴いた吉田秀和はなんと次のように書いているのです。
≪私は、正直いって、この曲は好きになれない。真実のものと自分に無理を加えて手に入れたものとが雑居しているみたいで。ムラヴィンスキーの妥協のない誇張のない卓抜な指揮をもってしても、これは蔽えない。いや、ますますはっきりする。勝利の炎はたけだけしく燃え上がるが、それは氷でできた炎だ。きく人の心を刺すように興奮さすが、熱くはしない。—1973.5.30朝日新聞より—≫ (え)

8月

8月22日はドビュッシー(1862-1918)のお誕生日!!

クロード・ドビュッシーの晩年は第一次世界大戦とほぼ重なっています。
1914年、オーストリアの皇太子が暗殺されたのをきっかけに、7月28日オーストリアがセルビアに宣戦布告。ドイツ、フランス、ロシアとまたたく間に戦局は多方面に拡大。オーストリアとドイツを中心とする同盟国側とロシア、フランス、イギリスの連合国側とのかつてない大戦争へと発展します。ナショナリズムが煮詰まって発火する戦火の時代の幕開けです。そのナショナリズムの母体となるものは、他方でその風土に根ざした様々な文化を生みだしてもきたのです。オーストリアやドイツにそれぞれ固有の音楽があり、フランスにはフランス独自の音楽があるようにです。

ドビュッシーは、戦争のもたらす暗い影と祖国の惨禍に、自身の病気や家族の不幸も加わり、やりきれない暗澹たる精神に閉ざされたようになったといいます。そんな中、最晩年の傑作群が誕生します。2台ピアノのための「白と黒で」、ショパンに捧げられた「12の練習曲」、そして楽器の組合せの異なる3曲のソナタ。このソナタは、当初の計画では6曲のセットであったのですが、ながくドビュッシーを苦しめた病(直腸がん)がそれを3曲で途絶させることになりました。
1曲目はチェロとピアノ、2曲目はフルート、ヴィオラ、ハープの3重奏、3曲目は絶筆となったヴァイオリンとピアノのためのソナタです。楽譜には「フランスの音楽家クロード・ドビュッシー作曲の〜」と記されている3曲のソナタは、無論ウィーン古典派以来のドイツ音楽伝統のソナタ形式とは無縁ですが、さりとてこれがフランスの美の典型とも思えない、謎のような気品と美しさを湛えています。かつてのドビュッシーの音楽にあった豊饒な響きや色彩感は遠のき、余分なものを削ぎ落としながら、音楽的実質は痩せ細ってはいません。音楽は休みない風のように緩急自在にふき流れてとどまることをしません。そして、それはフランスという固有の風土が育んだ美のかたちにちがいないのです。

「私にできることは、作曲しかないのだ。…だから私は、ただひたすら、曲を書き続ける。明日の朝にも死ぬかもしれないと思いながら()」とドビュッシーは述べたといいます。1918年3月、まだドイツ軍の砲撃のやまないパリでドビュッシーは55年余りの生涯を閉じます。第一次世界大戦が終結したのはその年の11月のことでした。(え)

*ポール・クロスリーのCDドビュッシー「ピアノ独奏曲全集」第3巻の付属冊子所載の「演奏者によるノート」(原明美訳)からの引用。

7月

7月11日はジョルジュ・サンド(1804-1876)のお誕生日!!

1837年10月のフレデリック・ショパンの日記にある記述です。ここでオーローラと呼ばれているのは、本名オーローラ・デュパン、筆名ジョルジュ・サンド。19世紀のフランス文学を代表する女流小説家です。彼女は時代の最先端を行くような恋多き奔放な女性でした。そして、パリで音楽家としての生活を軌道に乗せたばかりのショパンと恋に落ちるのです。1838年の夏ごろには、二人の関係はパリ市中では周知となり、恰好の噂の的となります。二人は、人々の好奇な視線を逃れて、スペインのマヨルカ島へ向かいます。マヨルカ島はスペイン・ヴァレンシアの東、地中海に浮かぶ小島です。恋人同士の愛の熟成にはうってつけの環境のように思えますが、あいにく雨季の滞在となったこともあり、激しい結核の発作がショパンを襲ったのです。わずか3か月ほどで二人はマヨルカを後にします。
のちにサンドは、マヨルカの生活は「完全な失敗」だったと回想しているのですが、マヨルカ島でショパンはピアノ音楽史に燦然たる大傑作を完成させます。〈24の前奏曲op.28〉です。長調とその平行短調を交互に5度循環で配置したこの曲集は、全24曲がじつに精緻かつ綿密、周到に構成されており、有機的に統一された小曲集として完璧です。あくまで個人的な印象ですが、この曲にはショパンのサンドへの情熱が刻印されているように思えてならないのです。燃え上がる恋の束の間の昂揚と甘い歓喜、そして絶えざる不安と絶望、その激しい振幅が長短調を交互にする曲の並びと歩みをひとつにして、ショパンの心の諸相を問わず語りに物語っている…。

ロマン主義的発想から遠いはずのショパンが、一見ロマン派以上にロマン派的な作品を期せずして残しているのは、芸術作品の創造における逆説の典型とでも言えましょうか。(え)

冒頭のショパンの日記は新潮文庫のカラー版作曲家の生涯「ショパン」(遠山一行)による。ほかも同書を参考にしました。

6月

6月10日はトリスタンとイゾルデが初めて演奏された日!!

1865年6月10日ミュンヘンのバイエルン宮廷歌劇場で、今年生誕200年となるリヒャルト・ワーグナーの代表的楽劇《トリスタンとイゾルデ》が初演されました。1859年に総譜が完成してのち、1862年にはウィーンで70回を超える稽古を経ながらも上演至難という烙印をおされるなどの紆余曲折があったすえ、ワーグナー崇拝者であったバイエルン国王ルートヴィッヒ2世の庇護のもとの初演でした。
この初演は19世紀音楽史上の最大の事件といってもいいでしょう。空からふりそそぐ陽光と大地の滋養をたっぷりと糧にしたロマン主義の果実がこれ以上ないほどに熟しきったような芸術作品とでもいえましょうか。熱病的・偏執的といっても差し支えない、腐敗寸前の世紀末を予見した世界です。
音楽史上では、《トリスタンとイゾルデ》の以前と以後で分けることさえできる分水嶺のような作品でもあります。前奏曲冒頭に現れるいわゆる「トリスタン和音」が、それまでの西洋音楽が土台としてきた機能的和声の崩壊の引き金となったことは、どの音楽史にも記述されています。
そういう音楽史的に重要で画期的な意味合いをもったオペラ(楽劇)が、男女の不義の交わりをテーマとしていることが、いかにもワーグナーらしく思えます。許されざる男女の愛が究極には永遠の死へと向かうさまを音楽的に表現するのに、機能的和声の枠組みはあたかも踏み越えなくてはならない禁忌であったのかと考えたくもなります。それほどにこの作品においては、表現上における何を(What)と如何に(How)が区別しがたく緊密に一体化しているのです。
たしかに不健全で頽廃的ともいえる官能の世界なのですが、ワーグナーの素晴らしいところはすべてを浄化する音楽で締めくくっていることでしょうか。忍従に忍従を重ね、焦らされるだけ焦らされて、最後に最高のカタルシスとして歌われるイゾルデの絶唱「愛の死」です。(え)

5月

5月12日はフォーレ(1845-1924)のお誕生日!

風薫る5月です。暦の上ではすでに初夏、1年中で最も美しく、そして過ごしやすい季節ですね。暮春の物憂さもさわやかな風が吹きさらってしまうかのようです。日毎に夕暮れの訪れも晩くなり、夜風がなんとも心地よく感じられる頃おいです。
こんな季節の夕べのための音楽と思われてならないのが夜想曲。英語でノクターン、フランス語でノクチュルヌですね。アイルランドの作曲家ジョン・フィールド(1782〜1837)が創始したと言われ、その影響のもとフレデリック・ショパン(1810〜1849)が数多くの曲を残しました。あたかも夜想曲はショパンのために創られたピアノ曲の形式のような印象があるほど、この曲種はショパンとの結びつきが強固です。
みなさんがよくご存じのように夜想曲には特に形式的な約束事はありません。おおむね3部形式で、分散和音の伴奏に夢見るような優美な旋律で構成されています。19世紀にヨーロッパの主役となった市民階級の詩的感興が発想の源泉なのでしょうか。しかし、この夜想曲、ショパンだけに代表させていいものではありません。のちにショパンの影響から出発しながらも、独自の夜想曲の世界を創りあげたフランスを代表する作曲家がいます。ガブリエル・フォーレです。
1845年の5月に南仏の小さな町に生まれたフォーレは、1924年にパリで80歳の生涯を閉じるまでに13曲の夜想曲を作曲しました。それは生涯にわたっており、第5番までが初期、第6番から第8番が中期、第9番以降が後期と区分されます。曲想は年齢とともに変化しています。最後の第13番が創られたのは1921年、フォーレの最後のピアノ曲となりました。時に77歳という高齢です。
もともとフォーレの音楽は、感傷に流されたり放恣な感覚にふけったりすることから遠く、繊細で知的に抑制された禁欲的な旋律と響きとが特色です。独特な和声の絶妙な味わいが尽きせぬ魅力となっています。それが、さらに厳しく幽玄とでも表現したいような夢想の世界をくりひろげます。
老齢のフォーレが書いた夜想曲、その味わいはそれなりに年齢を重ねてはじめてわかる音楽かもしれないとも思うのです。(え)

4月

4月26日はシェイクスピア(1564-1616)が洗礼を受けた日!!

シェイクスピアを愛したヴェルディ、「オテロ」のお話

英国の偉大な劇作家ウィリアム・シェイクスピアの正確な誕生日はわかっていませんが、洗礼を受けたのが4月26日という記録が残っているそうです。そのシェイクスピアがことのほか音楽を愛したことは、記録にはなくても、彼が遺した数々の傑作を繙けばよくわかることです。たとえば、誰もが知っている『ヴェニスの商人』、第5幕の冒頭は比類なく美しい場面ですが、そこにある台詞。得も言われぬ月夜の晩、ユダヤ人金貸しシャイロックのひとり娘ジェシカに恋人のロレンゾが語ります。

<心に音楽を持たない人間、/美しい調べにも心を動かされない人間は/謀反・陰謀・略奪にしか向いていない。/そういう人間の心の動きは闇夜のように鈍く、/感情はこの世と地獄の境のように暗い。>(松岡和子訳)

ここで“心に音楽を持たない人間”とされる典型を、シェイクスピアは同じヴェニスを舞台にした別の傑作悲劇で登場させています。そう、『オセロ』のイアーゴ、高潔な将軍オセロを、その貞淑な妻デズデモーナのありもしない不倫疑惑をでっち上げて夫婦ともども破滅に追いやる、あの非道のイアーゴです。『ヴェニスの商人』のシャイロックとは異なり、まったく感情移入のしようのない極めつけの悪人です。
今年が生誕200年となるイタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディがシェイクスピアに心酔していたことは有名です。オペラ化したかった作品は多かったようですが、実現できたのは3作で、そのうちのひとつが『オテロ(オセロのイタリア読み)』なのです。ヴェルディの作品中随一の傑作と言えるかもしれません。シェイクスピアのストーリーの神髄を凝縮して音楽化しています。“心に音楽を持たない”イアーゴがじわじわと将軍オテロを追いつめていくさまが、聴いていて辛くなるほどに、音楽のドラマとして表現されているのです。それは、およそ250年の年月を隔てた天才と天才とが、火花が飛び散る真剣勝負のように切りむすぶ姿をも髣髴とさせるようです。(え)

3月

3月1日はショパン(1810-1849)のお誕生日!

シューマンのショパン発見についてのお話

「諸君、帽子を取りたまえ、天才だ」
1831年にロベルト・シューマンが音楽雑誌に発表した批評にある有名な言葉です。前期ロマン派を代表する作曲家シューマンは音楽批評の分野でも大きな業績を残しました。近代音楽批評の最初期に大きな足跡を残し、その慧眼と明察は高く評価されています。
ここで「天才」と呼ばれているのは、いうまでもなくフレデリック・ショパンです。生年はシューマンと同じ1810年、たがいに20歳を過ぎてこれから人生の大海原に漕ぎだそうという年齢でのことでした。この批評が、類まれな才能と才能の歴史的邂逅を演出することになったのです。対象となった作品は「『お手をどうぞ』の主題による変奏曲」(op.2)、管弦楽の伴奏を伴うピアノ曲。ショパンがまだワルシャワにいた1827年に作曲され、1830年にウィーンで出版された曲です。シューマンの批評はその楽譜によったものです。
「お手をどうぞ」の主題というのは、もちろんモーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」の第1幕の名高い二重唱、ドン・ジョバンニが結婚間近の田舎娘ツェルリーナをたらし込む魅惑の旋律です。ショパンの曲は5つの変奏とポロネーズのコーダで構成されています。批評文中、シューマンはその変奏にいちいち文学的な解釈をくわえています。音楽と文学の相互的融合は19世紀ロマン主義のひとつの大きな潮流ともいえる特徴なのです。しかし、それはショパンの是とするところではなかったのでしょう。友人宛ての書簡でシューマンの批評文を冷笑的に揶揄するような言葉が残されているのです。
前期ロマン派の時代に生まれ、ロマン派音楽の旗手たちにその天才を賛美されながらも、ショパンは夜空の彗星のように独自に孤高であり、海の底にいるような絶対的な孤独の影をかかえています。ショパンの作曲の発想の根源は、ロマン派の作曲家とはまったく別の次元にあったと考えるしかありません。そこを隔てる深淵は思いのほか暗く深いようです。(え)

2月

2月20日は黛敏郎(1929-1997)のお誕生日!

いまも放送されている長寿音楽番組の「題名のない音楽会」で30年以上にわたって司会をつとめた作曲家 黛敏郎の名前は、まだ多くの人が記憶にとどめているのではないでしょうか。しかしながら、黛敏郎がかつて時代の寵児といってもいいほどのスター作曲家であったことを知っている人は、いまや数少なくなったようです。
1929年生まれの黛は、1951年に東京音楽学校(現 • 東京藝術大学)を卒業すると同時にパリに留学しますが、たった1年で帰国してしまいます。異国で伝統的な音楽アカデミズムに埋没するのでなく、日本でテープ音楽・電子音楽などの当時の前衛音楽の旗手として創作活動を始めたのです。おりしも、テレビが普及する前の映画産業がはなばなしい隆盛期で、映画音楽の依頼が文字通り殺到し、その主題歌などポピュラーな音楽にも才能を発揮します。女優の桂木洋子と結婚し、時の人のような派手なイメージを確立。そして、日本人作曲家ならではの金字塔的作品、「涅槃交響曲」や「BUGAKU」が生みだされるのです。
現在では日本を代表する作曲家としての知名度で黛をしのぐ武満徹は、そのころ作曲家を志してはいたものの、黛とは対照的にまだ無名で、食うや食わずの生活を強いられていました。自宅にはピアノもなく作曲をするのに不自由していたところ、突然自宅に1台のピアノが届けられたといいます。送り主は黛敏郎で、武満の不如意を聞き及んで、ちょうど使わないピアノがあったので譲ったということらしく、ちょっとした美談のように伝えられています。そのスピネットピアノを、武満は名作「ノヴェンバー・ステップス」までの13年間作曲に用いて、その後も生涯手放すことはなかったのです。
1996年の2月20日の黛の誕生日に武満は亡くなります。武満の葬儀の弔辞で、黛はあるメロディーをくりかえし口ずさみました。武満が若いころ黛の映画音楽作曲の助手をしていたときに使われなかった秘蔵の旋律を、「悲しみの表現の極致」としてそこで公開したのです。そのメロディーには、谷川俊太郎の詞が付されて「MI・YO・TA」というタイトルで、多くの人に歌われています。(え)

1月

1月31日はシューベルト(1797-1828)のお誕生日!

シューベルトに「ます」という曲がありますよね。まずは歌曲のほうの「ます(D550)」、2年ほどのちに室内楽の「ます(D667)」が作曲されました。どちらも群にぬきんでた傑作です。もちろん「ます」とは鱒のことです。鱒はサケ科のサカナで、大雑把にいうと海に出ていくのが鮭で、海に下らない陸封型が鱒でしょうか。でも「樺太鱒(カラフトマス)」は海に下るサケです。ちょっとややこしいですね。わたしたちが普通マスといわれて思いえがくのは、たぶんニジマス(虹鱒)じゃないでしょうか。スーパーなどの鮮魚売り場でもたまに見かけることができますよね。虹色に光る体をもち、山あいの澄んだ清流を泳ぐ魚影はさぞかし美しいことと思います。シューベルトの「ます」はそのニジマスではありません。ブラウントラウトという種で、ヨーロッパではマスというと一般的にはこちらです。同じ種だからでしょうか、やはり黒斑と朱斑の鮮やかな美しい魚ですが、ひとまわり大きな体長はときに80㎝にもなるそうです。ずいぶん大きな川魚ですね。
最初に作曲された歌曲の歌詞では、この「ます」はうら若い少女の暗喩(メタファ)なのです。しなやかでバネのように弾む旋律はそのまま少女の躍動する肢体を連想させますが、最後は釣り人(いけ好かないナンパ男)に釣り上げられてしまう落ちになっています。
抗いがたい魅力にあふれるその主題を使った室内楽の作曲をシューベルトに依頼した人がいたのです。ピアノにヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという異例の編成のピアノ五重奏曲です。シューベルトは第4楽章に「ます」のテーマによる変奏曲をおきましたが、全5楽章を通じて「ます」のイメージが遍在し横溢しています。どの楽章も、まるで釣り人(ナンパ男)から開放されて、清冽な渓流を若い生命をきらめかせて自由に泳ぎまわるかのごとくです。しかしながら、「ます」の主題のようにのびのびとした屈託のない旋律は、シューベルトがその早すぎる死にむかうにつれ、しだいに影が薄くなるように失われていくのです。(え)

このページのトップへ

(C)Gakken Plus Co.,Ltd. 無断複製・転写を禁ず