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日本の心

3月

「春の小川」「春がきた」「おぼろ月夜」、皆さんよくご存知ですね?春の歌の最高傑作と言われています。この3曲はいずれも岡野貞一(曲)・高野辰之(詩)によるもので、『尋常小学唱歌』に掲載されました。このコンビはこの他にも「故郷」「紅葉」「日の丸の旗」などの名歌(これらも『尋常小学唱歌』に掲載)を生み出しています。当時のヒットメーカー…といえるでしょうか。
今回は、こうした名歌を生み出した「唱歌」の歴史を辿ってみました。

1800年代

1872年(明治5年)
学制が発布され「唱歌」が小学校の一教科になります。 ところが!教材もない!指導者もいない!そこで…
1879年(明治12年)
文部省の伊沢修二が「音楽取調掛(後に⇒東京音楽学校⇒東京藝術大学)を創設。アメリカから音楽教育者のルーサー・メーソンを招き教科書の開発や指導者の養成を進めていきます。そして誕生したのが『小学唱歌集』です。「蝶々」や「仰げば尊し」など、外国の曲に日本語の歌詞を付けたものが中心でした。

1900年代

1907年(明治40年)
唱歌」が必須科目になり、文部省は新たな教科書を編さんします。
1910年(明治43年)
まずは、国語の教科書『尋常小学読本』から27篇の教材を選び、日本人が曲をつけた『尋常小学読本唱歌』を発行します。
これと併行して、文部省は東京音楽学校に教科書の編さんを依頼。作詞、作曲ともに日本人による教科書を目指します。
1911年(明治44年)
そして、『尋常小学読本』(1学年~6学年までの全6冊)が出版されます(1914年にかけて)。その後、「唱歌」が「芸能科音楽」となる1941年までの約20年間使われていきます。

この『尋常小学唱歌』に登場するのが岡野貞一高野辰之です。ところが今でこそ作者がこの二人であることが判明しているのですが、当時、文部省は誰が作ったのかを公表していませんでした。今でも作者不明の曲は数多くあり、「文部省唱歌」と言われている曲はそうした事情によるものです。(く)

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7月

♪月の沙漠を はるばると 旅の駱駝がゆきました
金と銀との鞍おいて 二つならんでゆきました

JR東京駅から特急で1時間半、外房線の御宿駅から海岸に向って歩いていくと、太平洋を望む海岸に「月の沙漠記念館」があります。橋を挟んだ向かい側の砂丘には三日月型をした歌碑と、2頭のラクダに乗った王子さまとお姫さまのブロンズ像。作詞家、加藤まさをの業績を記念して建てられたものです。
加藤まさをは、明治30年(1897年)静岡県西益津村(現在の藤枝市)出身の画家で、大正時代に隆盛をきわめた児童雑誌『少女画報』や『令女界』などに絵や文章を発表し、竹久夢二、蕗谷虹児とともに“抒情画三羽烏”と呼ばれていました。
「月の沙漠」は、大正12年(1923年)3月に『少女倶楽部』に絵とともに掲載されました。特定の場所を描いたものではないということですが、当時の加藤は胸を患い、毎年御宿で静養していましたから、同地の砂浜に着想を得たのかもしれません。「砂漠」を「沙漠」としたのも、水を表す“さんずい”で海岸の砂浜を表現したといわれています。加藤はその後、抒情画、詩以外にも、小説や作曲など幅広いジャンルの作品を残しました。昭和51年(1976年)には、東京の住居を引き払い御宿に転居。翌年、同地で80歳の生涯を閉じました。

一方、『少女倶楽部』を見た作曲家の佐々木すぐるは、加藤の詩に大変感激し、すぐに曲をつけました。しかし作曲家としてまだ無名であった佐々木の作品に耳を傾ける人はいませんでした。そこで佐々木は、「月の沙漠」などの自作を含む童謡をまとめた楽譜『青い鳥楽譜』を自費で制作。それをたずさえて全国の小学校をまわり、音楽教師に童謡を紹介していきます。訪問した学校の数は600を超えたそうです。また「青い鳥児童合唱団」も主宰し、作品を演奏する機会も作っていきました。
そうした努力が実って、「月の沙漠」は昭和2年(1927年)、JOAK(NHK)から、童謡歌手、安西愛子の歌で初めて全国に流れ、国民的な愛唱歌となって広まっていきました。佐々木はその後も作曲家として活躍。「お山の杉の子」「赤ちゃんのお耳」など、3000曲におよぶ童謡を残しました。(く)

【後記】「月の沙漠」は、「日本の歌百選」や「20世紀の心に残る日本の歌ベスト100」などにも入る名曲で、筆者(く)もよく聞き、よく歌ったものですが、会社の20代から30代の人たちは、誰ひとりこの曲を知りませんでした。なんだかとても淋しい…。

参照:「私の心の歌―夏」(小社刊)


3月

♪仰げば尊し わが師の恩
 教えの庭にも はや いくとせ

卒業の季節がやってきました。最近は卒業式もすっかり様変わりして、この「仰げば尊し」を歌う学校は少なくなっているようですが、ある年代以上の方々にとっては、なつかしさや感傷的な気持ちでいっぱいになる1曲ではないでしょうか? 平成19年(2007年)には日本の歌百選の1曲となっています。
「仰げば尊し」が発表されたのは明治17年(1884年)発行の『小学唱歌集(3)』でした。この当時の唱歌は合作によるものが多かったので、未だに作者が限定されない曲がたくさんあります。この曲もそんな1曲で、作者不詳として今日まできています。
そうした中、この曲の原曲とみられる歌の楽譜がアメリカで発見されたというニュースが2011年1月24日に発表されました。ご覧になった方も多いのではないでしょうか? 発見したのは一橋大学の名誉教授の桜井雅人さん。以下は新聞記事からの抜粋です。

<桜井さんによると、曲名は「SONG FOR THE CLOSE OF SCHOOL」。米国で1871年に出版された音楽教材に楽譜が載っていた。直訳すると「学校教育の終りのための歌」で、友人や教室との別れを歌った歌詞という。作詞はT.H.ブロスナン、作曲はH.N.Dと記されていた。旋律もフェルマータの位置も「あおげば尊し」と全く同じという。桜井さんは約10年前から唱歌などの原曲を研究。何十曲もの旋律を頭に入れ、古い歌集や賛美歌などを調べていたところ、1月上旬に楽譜を見つけた。(2011年1月24日共同通信)>

原曲が判明したとはいえ、この曲がどのようにして日本に入ってきたのか、作詞・作曲者は誰なのか、日本語の歌詞は誰によるものなのか…、まだまだ分からないことがたくさんあります。桜井さんは、「日本にはたどれる資料がなく、今の米国でも知られていない歌。作詞・作曲者の実像など不明な点も多く、今後解明されればうれしい」と話しています。
アメリカで生まれ、日本に伝わった「仰げば尊し」。このニュースはアメリカにも伝わり、あるハイスクールでは、故郷に帰ってきた「SONG FOR THE CLOSE OF SCHOOL」を再演したそうで、その映像は今でもYouTubeで観ることができます。 歌詞が時代にそぐわず今は歌われる機会が少なくなったこの曲ですが、もう一度口ずさみながら、原曲がたどった旅に思いを馳せてみませんか。(く)


1月

ペチカ

♪雪のふる夜は たのしいペチカ
 ペチカ燃えろよ お話しましょ
 むかしむかしよ
 燃えろよ ペチカ

明治38年(1905年)、日露戦争に勝利した日本は、満州に鉄道会社を設立するなど、植民地化に向けて進出を図っていきました。日本からの移民も増えていく中、大正11年(1922年)、子どもたちが満州に親しみを持つことのできる教科書を発行しようと、南満州教育会教科書編集部が設立されます。日本の風土と満州の風土がかけ離れていることから、これまで日本の文部省唱歌を使ってきた唱歌についても “満州色豊かな歌”をまとめた副読本を作成する作業が始まり、教育会は、北原白秋、野口雨情、巖谷小波(いわやさざなみ)ら詩人たちと、山田耕筰、梁田貞(やなだただし)、中田章ら作曲家に新曲を依頼します。
「ペチカ」はこの副読本のために作られた曲だったのです。作詞は北原白秋、作曲は山田耕筰。大正13年(1924年)『満州唱歌集~尋常科第一・第二学年用』に発表されました。この時同時に、この二人による名曲、「待ちぼうけ」も発表されています。
満州の冬は日本の比ではなく、山野も凍るといわれているほどの極寒の世界です。「ペチカ」は当時シベリアや北欧で使用されていた、石やレンガで造られた大型の暖房装置で、火そのものではなく暖められた石やレンガが部屋全体を暖める機能を持っていました。そんな「ペチカ」のある生活を楽しんでいる人びとを歌ったこの曲は、満州での生活に対する不安を憧れに変える役目も担っていたのです。2番の歌詞「栗や、栗や」は、満州の冬の風物詩でもある路上の菓子売りの声。当時は栗のほかにも、杏に砂糖をまぶした糖果児(タンホール)や焼き芋売りの声が行き交っていたそうです。
昭和6年(1931年)に満州事変が勃発。以降、「満蒙開拓団」が組織され、多くの日本人家族が入植します。そして昭和7年(1932年)、満州国の建国が宣言されました。(く)

*参照 『わたしの心の歌-冬』(学研パブリッシング 刊)


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